東条英機が提案した「3つの案」

鈴木は陸軍中将で、1941年4月に予備役となった。さらに第2次近衛内閣の国務相兼企画院総裁に就任した。需要の予想にも疑問が残る。500万キロリットルのうち民需を140万キロリットルとしている。

開戦1年目の軍需は380万キロリットルで、2年目は360万キロリットル、3年目は335万キロリットルと減少している。戦っているのになぜ減るのか。戦線を縮小するという見込みなのか、戦争が勝勢に進み連合国の侵攻が進まないと想定しているのか。いずれにしても、鈴木は石油の需要が減る理由を説明していない。「戦争をする」、という結論が先にあって帳尻を合わせたとも思える。

1941年11月1日、東条首相と杉山参謀総長が会談した。東条は戦争に踏み切るかどうかを巡って3つの案を用意していた。すなわち、

(1)戦争をしないで「臥薪嘗胆がしんしょうたん」する
(2)直ちに開戦を決意して作戦準備を進め、外交を従とする
(3)戦争決意の下に作戦準備を進める。外交交渉は最小限の要求で進める

である。このうち東条は(3)案を示した。海軍も大蔵省も企画院も同じ考えである。「お上」(天皇)の気持ちも考えなければならない、と言いそえた。陸相も兼任している東条の、陸軍参謀本部に対する根回しであった。

杉山は(3)に対して「それでは9月6日の御前会議を繰り返すことになるのでは」と難色を示した。さらに「もし外交がうまくいったら準備した兵を下げることになるがこれは困る。内地からも中国からも兵を出している。南洋まで出して戦争しないで引いたら士気に関わる」と述べた。

合理的な判断はせず、ともかく戦争を始めようとした

続いて、統帥部としての要求を示す。

①国交調整は断念する
②戦争決意をする
③開戦は12月初旬とする
④作戦準備をする
⑤外交は戦争有利になるように行う

ことを主張した。ほんの1カ月前、東条は杉山と同じように近衛首相を9月6日の御前会議の内容で突き上げていた。今度は東条が杉山にそれをやられる番であった。

杉山にとって、外交の成功とは戦争に勝つことであって、戦争の回避につながる撤兵は成功ではない。兵の士気というが、南洋に派兵したのは杉山ら軍首脳である。仮に兵卒が喜んで行ったとしても、その対価が対米開戦では国に与えるダメージがあまりにも違いすぎる。

しかし杉山らには、そうした合理的な判断はできず、ともかくも戦争を始めるという意思が先行していた。天皇の意思などおかまいなしであった。2人の会談の後、連絡会議が開かれた。東条首相と東郷茂徳外相、賀屋興宣蔵相、嶋田繁太郎海相、鈴木貞一企画院総裁、杉山元参謀総長、塚田攻参謀次長、永野修身軍令部総長、伊藤整一軍令部次長、原嘉道枢密院議長らが出席した。

まず、(1)案から討議された。「臥薪嘗胆」とは中国・春秋時代の故事に由来する言葉だ。越との戦いに敗れた呉の王が、復讐心を忘れないよう、堅い薪の上に寝た。その後は越が呉に敗れ、越王は恥を忘れないようにと、苦い熊の肝をなめたという話で、日清戦争後、ロシアとフランス、ドイツの三国干渉によって遼東半島を清に返還することになった際、盛んに日本国内で言われた故事である。

「今はがまんして、いずれ必ず復讐する」という誓いだ。実際、日本はロシアを仮想敵国として軍事、外交の準備を進めた。日露戦争でロシアを破り「臥薪嘗胆」を実現した。