だが、バブル崩壊で、景気の後退が始まった。93年8月、政権交代で非自民連立の細川内閣が誕生する。政権の眼目の政治改革関連法案が94年1月29日に可決すると、2月3日未明、細川首相はいきなり「消費税廃止・税率7%の国民福祉税創設」を打ち出した。首相秘書官だった成田憲彦(現内閣官房参与・駿河台大教授)が回顧する。
「景気対策として大型所得減税を経団連も連合も要望したが、とくにアメリカが強く要求した。最終的に6兆円の規模になり、財源として消費税率引き上げという話になった。大蔵省は一般財源にも使いたかったが、細川さんが福祉目的税的な性格を持った大型間接税にと指示し、国民福祉税となった」
細川は記者会見で「税率7%」の根拠を質され、「腰だめの数字」と口にしてしまう。成田の解説が続く。
「細川さんは3年先行という減税の期間を強く意識していて、税率にはあまり関心がなかった。なぜ7%か、大蔵省も細川さんに説明していなかった」
最大与党の社会党が反対した。官房長官の武村正義も反対に回る。連立与党は翌4日、増減税構想の白紙撤回を決めた。
細川や新生党代表幹事の小沢一郎(後に民主党代表)と、武村官房長官や社会党の村山富市委員長(後に首相)らの根深い対立が背景にあった。その後、細川退陣、羽田孜内閣を経て、6月に自社さ連立の村山政権が誕生した。
村山は就任直後の7月、外交、安全保障、自衛隊問題などで「歴史的な大転換」に踏み出したが、消費税問題でも土井たか子元委員長(元衆議院議長)以来の否定論を棄て、一気に転換した。村山内閣は9月、「減税3年先行・消費税率5%」を決める。11月に国会で税制改革関連法案を成立させた。消費税導入決定から6年で初めて増税が実現した。
官房副長官だった園田博之(現たちあがれ日本幹事長)が淡々と振り返る。
「村山さんは『非常に厳しかった』と言っていますが、実は細川政権のときから事実上、決めていたんです。村山内閣では、先に金を使って、財源をどうするかが政権内の主な議論だった。国民の間にも5%までは仕方ないという感じがあった。細川政権での『1年以内に』という約束を引き継いで、村山首相としても税率引き上げは必須科目だった」