OSSが戦略的重要地点としたのは山東半島

中国共産党はスパニエル・チームを4カ月間軟禁し続け、外部との連絡を許しませんでした。その間、司令部もOSSも、スパニエル・チームに何が起きたのかわからないままでした。

その間にOSSは西安に基地を作り、中国北部、北東部、満洲、朝鮮に潜入する計画を準備していました。その中で恐らく最良の成果を上げていたのが、山東半島を作戦地域とする「R 2Zミッション」というチームでした。ミッションの目的は、北京から黄河流域に至る地域で12の情報収集・工作ネットワークを作ることにありました。リーダーのジョン・バーチ大尉は、中国語に堪能で、中国をよく知っており、日本の占領地内に豊富な人脈を持つ最優秀の情報士官だと評価されていました(OSS, pp.227, 235)。

OSSの分析によると、山東半島は戦略的に極めて重要な位置にあります。第一に、日本・中国中央部・朝鮮と中国東北部・満洲とを結ぶシーレーンを擁し、第二に、山東省を占領する軍隊は中国中央部と北部を南北に結ぶ二つの鉄道路線のうちの1つを押さえることができます。第三に、山東省に情報工作基地を置けば、河北、察哈爾、熱河、満洲、朝鮮をカバーできます。そのため、OSSは山東半島への潜入を以前から切望していました。山東半島からOSSが入手できた情報は乏しく、唯一成果を上げていたのがバーチのミッションでした(OSS, p.236)。

山東赤が中国地図で強調
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ヤルタ会談後、中国共産党の米軍への態度は一変

1945年8月上旬、日本の降伏が近いと知ったOSSのドノヴァン長官や、中国戦域の米軍とOSSの幹部らは、中国北部、満洲、朝鮮への工作を加速させます。ドノヴァンは、ソ連が占領したら入れなくなるから、一刻も早く入っておかなければならないと檄を飛ばしました。

一方、中共は1945年2月のヤルタ会談以降、米軍への態度を一変させていました。1945年1月までは、中共は揉み手で米軍やOSSに接近していました。中共支配地域にある連雲港を上陸地点とする共同作戦を米海軍に持ちかけたり、朱徳が汪精衛軍への大規模な浸透工作をOSSに提案して2千万ドル貸すよう求めたり、といったことです。

ところがヤルタ会談の密約でソ連が戦後、旅順と大連を得ることになったので、米軍を中国北部や中央部に入れないよう、強硬に抵抗する方針に変わりました。