俯瞰する目線から融和を求める
「ピースとハイライト」の、それこそ「ハイライト」となるのが、「♪絵空事かな? お伽噺かな?」と同じ高い音程のメロディで歌われる「♪20世紀で懲りたはずでしょう?」というメッセージである。
何と気高い言葉なのだろう。
「ピースとハイライト」で歌われている様々な社会問題について、声高にアンチテーゼを突き付けるのではなく、抽象的な情緒にくるむのでもなく、一段高い、歴史を俯瞰する目線から、相手方に融和を求めるようなメッセージに聴こえる。
「馬鹿野郎、ヘイトスピーチにも、戦争にも、俺は反対だ!」
でもなく、
「この時代に、もっと愛と優しさが大事だよね……」
でもなく、
「こういうの、さんざん懲りたじゃん。20世紀で終わりにしようぜ」。
「懲りた」の主語は、自分も相手方も含めた「私たち」である。だから、自分と相手方は対立するのではなく、20世紀という共通の体験が接着剤となって、融和の方向に導いていく。
ヘイトスピーチも戦争も20世紀で懲りた
NHKで時折放映される『映像の世紀』というシリーズがある。ここでいう「世紀」は20世紀。残された貴重映像から、20世紀の100年間を振り返るというドキュメンタリーなのだが、それを見ていると、「映像の世紀」は「戦争の世紀」だったことを痛感する。
第一次世界大戦、第二次世界大戦と、とりわけ20世紀の前半は、世界規模でのべつまくなし戦争し続けていたのだ。よく考えたら、とんでもない「戦争の世紀」である。
「♪20世紀で懲りたはずでしょう?」
懲りたに決まっている。懲りていない方がおかしい。懲りていなければ、その人は歴史を知らないか、単なる思考停止かどちらかだ。
この「♪20世紀で懲りたはずでしょう?」は、大げさに言えば、新しい運動論にも聴こえてくる。社会問題をイデオロギーの問題に転化(≒陳腐化)するのではなく(それは、往々にして「懲りていない」相手方を利する方向に帰結する)、歴史を俯瞰する目線から「俺たち、さんざん懲りたじゃん。20世紀で終わりにしようぜ」と融和、ひいては共闘を持ちかける新しい運動論。
ヘイトスピーチも戦争も、私たちは、もうさんざん懲りたのだ。だから、20世紀で終わりにすればいい──。
繰り返すが、「♪20世紀で懲りたはずでしょう?」──何と気高い言葉なのだろう。
「♪20世紀で懲りたはずでしょう?」──これが「ピースとハイライト」の、それこそ「ハイライト」である。