戦国時代の日本では人身売買が横行していた。三重大学教育学部の藤田達生教授は「中世の戦争は人盗り・物盗りが当たり前だった。戦場では、逃げ惑う女性や子供が連れ去られ、ポルトガル商人らを通じて、奴隷として海外に売りさばかれていた」という――。

「旅行の先々で、奴隷の生涯に落ちた日本人を親しく見た」

天正十年(一五八二)二月、天正遣欧少年使節がイエズス会巡察使ヴァリニャーノに率いられてローマへと旅立った。使節の内訳は、主席正使伊藤マンショ、正使千々石ミゲル、副使中浦ジュリアン、副使原マルチノである。彼らは、九州のキリシタン大名・大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名代として派遣された十代の少年だった。

1586年、ドイツで印刷された天正遣欧使節肖像画(図版=京都大学貴重資料デジタルアーカイブ/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
1586年、ドイツで印刷された天正遣欧使節肖像画(図版=京都大学貴重資料デジタルアーカイブ/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

そのヨーロッパ旅行記は、『天正遣欧使節記』として編纂へんさんされている。ここでは、ヴァリニャーノの著作をデ・サンデがラテン語に訳した同書(一五九〇年にマカオで刊行)から、少年たちが旅路において見聞した日本人奴隷についての思いが記されている部分を参考までに紹介しよう。なお、本書にはヴァリニャーノによる創作とする評価もあることを断っておきたい。

「このたびの旅行の先々で、売られて奴隷の生涯に落ちた日本人を親しく見たときには、道義をいっさい忘れて、血と言語とを同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、こんな安い値で手放すわが民族への義憤の激しい怒りに燃え立たざるを得なかった」

「実際わが民族のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値でさらって行かれて売りさばかれ、みじめな賤役に身を屈しているのを見て、憐憫れんびんの情を催さない者があろうか」

情報通の豊臣秀吉は、このような日本人奴隷の海外への大量流失について問題視していた。最下層からはい上がった秀吉は、大名出身者にはない危機感があったのだろう。