※本稿は、陳天璽『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』(光文社新書)の「プロローグ」を再編集したものです。
1972年の“外交交渉”が、横浜中華街に波紋をもたらした
私はこれまでの人生の大半を「無国籍」と明記された身分証明書とともに生きてきた。中国人の両親のもと、横浜中華街に生まれ育ち、日本の文化も中華の文化も当然のように吸収し、自分の一部としてきた。
父は1950年代に留学生として来日し、母は1964年に、5人の子どもを連れて台湾から日本に移住した。二人は子どもたちの将来を見据え、日本を終の棲家と決め、仕事や子育てに奮闘する。家族たちが日本での生活に慣れ、生活も安定した頃、私は生まれた。
そんな小さな家族の命運を揺るがすであろうとは誰も知る由もなく、国家間では外交交渉が行われていた。
1972年、日本は中華人民共和国と国交正常化する一方で、中華民国(台湾)との国交を断絶した。当時、我が家も含め、日本に在住していた5万人ほどの華僑の多くは、それまで日本が認めていた中華民国の国籍を持って暮らしていた。しかし、この外交関係の変動により、日本が中華民国と断交するという。人々は動揺した。
「自分が持っている国籍がもう日本では認められなくなる。そうしたら、自分たちの財産はどうなるのだろう?」
「このパスポートはどうなるのか? 渡航の際はどうすればいいのだろう?」
「無国籍で生きる」日本に住む華僑家族が下した決断
人々は不安を募らせた。また、さまざまな噂も飛び交った。
当時、中華民国国籍を証するパスポート(旅券)を所有していた人たちは、中国人として、いままでのように日本で暮らしていくために、中華民国国籍を維持し、国交のない国の国民として生きていくのがいいのか、もしくは、国籍を中華人民共和国に変更し、国交のある国の国民として暮らしていく方がいいのか、あるいは、日本に帰化し、日本の国民として暮らしていくのがいいのか、選択を迫られた。
1922年、中国の黒龍江省に生まれ、満州国時代を経験し、日中戦争、さらには国共内戦を潜り抜け台湾に渡った父、一方、湖南省に生まれ、国民党軍の将軍の娘であった母にとっては、どれも苦渋の選択だった。
結局、両親は悩みに悩んだ挙句、家族8人全員そろってどこの国籍も選ばず、「無国籍」として日本に暮らすことを選択したのである。それが、当時の家族の安全とアイデンティティ(帰属意識・自己同一性)を守る最善の方策だった。