こじらせ教師化を予防する他者の視線
教師にはみな、こじらせ教師の「予備軍」的なところがあります。もちろん、私もしかりです。
ある日、フラッシュバックがきっかけとなり、破壊行為が始まった生徒がいました。
その子は教室のドアを蹴り倒し、さらに壁にも大きな穴をあけました。その子の体を後方から淡々と抑えながら、一方でこれからやらねばならないことを頭の中で整理していました。同僚を呼ぶ言葉かけ、管理職への状況の報告、ドアや壁の修繕をお願いする連絡……などなどです。謝罪もしながらお願いもしなければなりませんし、報告書の提出が求められるかもしれません。
そんなことを考えていた矢先、その子の後方への頭突きが私の顎にヒットしました。脳が大きく揺れるような感じがして、クラッとしました。二回、三回と連続して入り、眼鏡が吹き飛び、自分の歯から来る衝撃で口の中が血だらけになりました。
自分の身の危険を感じるような事態に陥ると、誰でもこのままでは心を保てなくなるのではないかという怖さを感じます。そのため、近くにいた同僚に「そばにいて、私のことを見ていてほしい」と頼みました。
誰かの視線があるだけでも、冷静さをキープできます。「事の顛末を見届けてくれる人がいる」と思うだけでも、自分を客観視できますし、冷静に対応できます。それだけ、他者の視線は、自身の行動のコントロールに大きな影響をもたらすものだと言えます。
その一方で、もし客観視を促してくれる他者の存在がなかった場合、いとも簡単に「こじらせ教師」になってしまうのではないかとも感じました。教師という仕事は「不安常在」です。常に不安と隣り合わせだということが、自分をこじらせていくことにつながりやすいことを実感した瞬間でした。
教師も人間である以上、常に完璧なふるまいをするのは難しいです。自分の中にある「理想の教師像」と乖離し始めた時に、他者の視線を意識しつつ、それを心の支えとしながら自分を見つめ直す具体的な機会が必要なのだと思います。
そのような視点に立てば、どの教師にもみな、「教室マルトリートメント予備軍」的なところがあり、それは孤立を防ぐことで解決に近づくと考えられます。職員室内が温かい空気感で包まれ、そこにポジティブでお互いを尊重し合う対話があること。これこそが、教室マルトリートメントを予防する最大のカギだと言えるのではないでしょうか。