義経は平宗盛や平時忠といった捕虜を連れて、西国から京都に入ります(4月26日)。上洛した義経は、朝廷より、院(後白河法皇)の親衛隊長とも言うべき、院御厩司(院の軍馬などを管理するうまやの長官)に任命されます。これには頼朝の推薦があったといわれています(平家物語で最も古い成立とされる『延慶本 平家物語』)。

『吾妻鏡』(5月5日)には、頼朝の義経に対する怒りの理由が書かれています。それによると、義経は、壇ノ浦合戦の後、九州に進出し、関東武士の処罰などの越権行為をしていたとのこと。九州のことは、範頼(頼朝の異母弟)が差配すると頼朝が命じていたにもかかわらずです。

5月7日には、京都の義経から「謀反の意思などない」と誓う起請文きしょうもんが頼朝のもとに届きますが、頼朝は怒りを鎮めることはなかったといいます。同日、義経は、平宗盛ら捕虜を連れ、京都をたち、鎌倉に向かいます。

ところが、義経は相模国酒匂宿(神奈川県小田原市)で足止めされ、鎌倉入りを禁止されてしまうのです。捕虜だけが鎌倉に連行されました(5月15日)。

その後、義経は鎌倉郊外の腰越(鎌倉市)にて、無実を訴える「腰越状」を書き、頼朝側近の大江広元に提出したといわれます。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、捕虜となった平家の総帥・平宗盛が腰越状を代わりに書いてやるシーンがありましたが、宗盛が代筆したということはありません。

腰越状は後世の創作とされている

腰越状は『吾妻鏡』だけでなく『平家物語』や『義経記』にほぼ同文のものが掲載されています。

そこには、義経は肉親の情に訴えて嘆願したものの、頼朝の怒りは収まらず、対面することは許されず、むなしく京都に帰っていったことが書かれています。

しかし、腰越状はその文体と内容に疑問が出されていて、後世の創作ではないかとする説が有力です。

さらに最新の説では、頼朝と義経は対面していたとする見解が出てきています。

『平家物語』には出てきませんが、より古態を存する『延慶本 平家物語』には、2人が対面した様子が記されています。そこには「打ち解けた様子もなく、会話は少なかった」と書かれています。会うことは会ったが、気まずい雰囲気であったことは確かです。

2人の間には、明らかに緊張関係が生まれていたわけですが、その理由は、これまで見てきた義経の振る舞いにあったと言えましょう。