明治3年から続く渡辺酒造店の守るべき伝統
ここまで読んでくださった皆さんの印象としては、私は日本酒という伝統産業の破壊者のように映るかもしれません。
でも、私はむやみやたらに破壊しているわけではありません。守るべき伝統とそうでない伝統というものがあり、そこはわきまえているつもりです。
守るべき伝統とは、まずは先人の知恵です。
我が家には渡辺酒造店の代々の主人が残してきた日誌があります。明治3年、渡邉家の5代目久右衛門章が生糸の商いで京都に行った時、口にした酒のうまさが忘れられず、自ら手掛けて「蓬莱」を生んだのが渡邉家の酒造りのはじまりでした。
いついつこんな仕込みをした、こんな作業をしたといったことが書かれている、酒造りの記録ともいえるのがこの日誌です。
5代目渡邉久右衛門章が書いた日誌の、明治37年6月の記述に目が留まったことがありました。
渡辺酒造店のある飛騨市古川町に大火が発生したことが書いてあったんです。それによると「酒蔵が全焼した」「婦女子は近くのお寺に避難した」「自分は小学校でしばらく仕事をした」などと詳細に記録が残されていました。そしてその年の11月には蔵を再建して酒造りを始めたという記述を見た時は驚きました。
すべてを失ってから5カ月で酒造りを再開できるなんて、昔の人は本当に強い。明治37年といえば日露戦争がはじまるという頃。開国から50年と経っていないのに欧米列強の一角であるロシアを打倒したわけで、日本人がもっともバイタリティに満ち溢れていた時代と言えるかもしれません。その後も、日本でチフスが流行して、特に関西は大打撃を受けたことや、飛騨地方でもねずみ狩りをしたといった記述も見られました。
昔の困難を考えるとコロナ禍も経営危機も大したことない
日誌を読んでいると、いまも昔も困難はあるのだなとわかります。日誌には事実が記されているだけで、その時にどんな気持ちだったかは書かれていません。しかし、その後の行動を見れば、どんな思いで仕事をしていたかは想像がつきます。きっと歯をくいしばって、なにくそと思っていたに違いありません。
そんな不屈の精神を垣間見ると、コロナ禍や以前の経営危機など、大したことはないと奮い立たされる気持ちになるんです。
そういう先人の志を自分が繋いでいかなければならないという思いがあります。
私が思うのは、家業が危機の時ほど、創業者の遺伝子が発動するのだということです。苦しい時ほど先人の言葉が浮かびあがってくるんです。
特にコロナ禍でもへこたれなかったのは、先人の日誌を読んだことで彼の気概が私に乗り移っていたのかもしれないと思うんです。