安楽死を望むよりも「ボケたらしかたない」と考えるほうが健全

認知症について「ボケる」と表現するのは、侮蔑的であるとして避けるのが一般的になっていますが、私は必ずしもネガティブなニュアンスの言葉とは思っていません。むしろ、脳の老化がもたらす自然な状態を表すものと認識しているので、本稿でも使用することをここでお断りしておきます。

認知症の検査法である「長谷川式簡易知能評価スケール」を開発したことでも知られる、精神科医の長谷川和夫先生は、88歳のときにみずからが認知症であることを公表しました。

日本の認知症医療の第一人者といわれる当人が認知症になったわけですが、長谷川先生本人は、新聞のインタビューで「隠すことはない、年を取ったら誰でもなるんだなと皆が考えるようになれば、社会の認識は変わる」とあっさり言い、「認知症の人自身が何を感じているかを伝えたい」と、講演活動を始めました。

認知症を受け入れず、「認知症になってまで生きたくない」と安楽死を望むより、「ボケたらしかたがない。ボケたなりにできることをやろう」と考えるほうが、老いに対するスタンスとして健全なのではと私は思います。

高齢者の手を握る看護師
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老いと闘ったほうがいい時期は存在する

老いと闘うことと、老いを受け入れることは、二項対立ではなく「移行」だと私は思っています。

老いと闘えるあいだは、闘ったほうがいいと思います。まだ十分に闘える時期なのにそうしないと、年齢以上にずっと老け込んでしまいます。定年後に何もしない生活をしていると、60代でも歩行がよろよろしたり、すっかり老人そのものの顔つきになったりする人もいます。

70歳そこそこで寿命がきていた時代であれば、それでもかまわないと思いますが、いまや日本人の平均寿命は男性が81歳、女性が87歳を超えています。これは平均ですから、60歳より前に亡くなる人がいることを考慮し、平均余命を見るかぎり、男性でも85歳くらいまで生きる人が多数派でしょう。

60代から20年以上ものあいだ、ヨボヨボの状態で過ごすというのは、さすがにつらいのではないでしょうか。歩けなくなると行動範囲がかなり狭くなってしまうので、できるかぎり毎日、散歩を楽しむようにしたいですね。

また、認知機能があまりにも急に衰えると、本も読めなくなるし、人との会話もままならなくなるので、なるべく頭を使いつづけるようにすることです。こうして、ある時期までは老いと闘っておいたほうが、少なくとも残りの人生を楽しめると思います。

ただ、認知症になって軽い物忘れが始まった、あるいは歩行がおぼつかなくなったら、それで人生終わりかといえば、そんなことはありません。

老いを受け入れるということは、老いているなりにどう生きるかということです。老いと闘うフェーズが終われば、次は老いを受け入れるフェーズがあって、そこでジタバタしないことが、格好よく老いることだと思います。