到着した仙台駅構内は凄まじい被害を受けていた。2階のコンコースは天井が破損し、スプリンクラーの管が切れて天井から漏水したため、コンコースの一部が水浸しになった。天井から吊っている案内サインが落下、3階でも天井が何カ所も落ちていた。駅構内の壁はあちこちでタイルが剥落し、1階では床の一部が陥没していた。さらに新幹線ホームの被害は目を覆わんばかり。下りホームの天井材が広範囲で落下し、上りホームの壁の一部が倒壊したのだ。建築畑出身の渡邉は旧国鉄に入社直後、現在の仙台駅の設計に携わっており、新幹線ホームの惨状には思わず涙がこぼれた。
「この場所の設計をしただけに、この光景を見て『とにかく復旧・復興まで全力で頑張る』と決意を新たにしました」(渡邉)
復旧作業を続ける間、渡邉は駅構内に「全員一丸となって頑張ろう伝言板」を設置した。社員の一体感を高めるためだ。「俺たちは負けない!! 全力で立ち向かう」「着実に一歩ずつ!!」……。自らを鼓舞する社員たちの力強い言葉が続々と書きつけられた。渡邉は新幹線ホームの夜の復旧作業に4日連続で立ち会い、自らも指示を出して取り組んだ。復旧作業には多い日には約400人が当たり、仙台駅は3月28日の仙石線のあおば通~小鶴新田間の運転再開に合わせて営業を再開。地震発生から17日が経っていた。その後も渡邉は駅近くの社員寮に寝泊まりを続け、宮城県亘理町の自宅に帰ったのは地震発生から約1カ月半がすぎた4月末のことだった。
渡邉は、震災を境に社員の意識が明確に変わったことを強く感じている。「以前にも増して『有事の際は自分たちができることをすぐにやらなきゃならない』『相互に連絡を密にしよう』と思うようになった。災害訓練も駅や仙台支社だけでやるのではなく、仙台市と連携を取りながら垣根を越えたものを導入したほか、地震と火災が両方起きた場合を想定した訓練も行うようになりました」。
(文中敬称略)
※すべて雑誌掲載当時