東北新幹線の復旧工事は普段JR東海や西日本の工事を行っている施工会社、さらには新幹線と同じ1435ミリの軌道幅である京浜急行の測定車両を借用するなど、多くの関係者の協力を得た。現場では線路の変位を直す軌道工事と架線を張る電気工事の関係者が連携を取り、復旧は順調に進んでいった。運転再開区間も大宮~那須塩原間(3月15日)、盛岡~新青森間(3月22日)と徐々に拡大。地震発生から約1カ月後の4月7日には新たに一ノ関~盛岡間で運転が再開され、残る被害個所は約90カ所にまで減っていた。だが、まさにその日の夜、宮城県で最大震度6強の大きな余震が発生。東北新幹線には電化柱と架線を中心に、新たに550カ所もの被害が出てしまった。翌8日に現場に行った作業員たちは、再び受けた激しい被害の状況に茫然となったという。
「凄まじい余震でした。仙台周辺の被害は、こちらのほうが大きかった。運行指令室や現地のメンバーも『心が折れそうになった』と話していました。あれがあったために、5月の連休に全線復旧を間に合わせるのは極めて困難な作業になりました」(細川明良)
それでも「4月29日」という全線復旧の予定日は変えなかった。JR東日本の社員だけでなく、復旧に携わった全員の中に「震災発生後初めてのゴールデンウイークに、東北の被災地に被災者の関係者やボランティアを運ぶ」という使命感があったからだ。細川は「とにかく『つなぐ』のだと。鉄道魂というか、鉄道員としての誇りみたいなものを感じながらやっていました。運転を再開したときに、新幹線に向かって多くの地元の方が手を振って喜んでくださった。今でもあのビデオを見るとみんな涙ぐみます」と話す。
社長の清野智は地震発生から8日後の3月19日に空路で山形から仙台に入り、仙台駅などで社員を激励。その日は現地で宿泊先が確保できず、いったん東京に戻って翌朝に空路で花巻から釜石など三陸地方に向かい、エリアで働く社員を励ました。釜石駅では、自身が津波にさらわれながら九死に一生を得た社員や、津波で妻を亡くした社員がおり、それでも鉄道員としての仕事を果たそうとする姿を清野は誇りに思った。東北新幹線全線での運転再開の当日、仙台から新青森に行く一番列車の運転台に乗った清野は、沿線の被害の凄まじさを目の当たりにしながら弘前市で開かれている桜祭りの会場に向かった。
「桜祭りのセレモニーで挨拶をしたのですが、みんなから『よかった、よかった』と言われて涙が込み上げてきた。普段は当たり前に切符を売ったり、運転したりしているけれど、私たちはやはりそれだけ重い仕事をしているのだということを感じた。『つなぐ』ということの意味を改めて実感しました」(清野)
(文中敬称略)
※すべて雑誌掲載当時