「自由な選択」に影響を与えるもの

私たちは、不幸や悲劇を含め、自分の人生の筋書きの唯一の著者であるかのように、個人的な物語を自身の選択の産物だと解釈すべきだと告げられている。これにより、私たちの生活と下す決定が、文化的規範や道徳や差別や強力な社会的勢力によって大きく影響されるという事実が、見えにくくなっているのである。

妊娠して母になることに関しては、すべてを包括する選択というレトリックに疑問を投げかけることが重要である。自由に選べるのが社会が女性たちに望む選択だけだとしたら、実際にはどれだけの策を講じる余地があるだろうか?

女性が社会の意志とそれが私たちに与える優先順位と役割に従って決定を下す限り──たとえば、異性愛者と愛のある関係を続ける、善意ある献身的な母である限り──私たちは、自由で独立した自律的な個人という社会的地位を獲得し、欲求を満たすための制限のない能力を手に入れることができるのだ。

しかし、私たちの選択が社会の期待と衝突するとき、たとえば美容に手をかけることや、子どもを持つこと、男性との(概ね)愛のあるパートナーシップを維持することを拒否した場合に、問題にぶつかる。行動を非難されるだけでなく、孤立して社会的地位を失う結果に直面するのだ。なぜなら、「それはあなたの選択ですよね!」(「悪い選択」と付け加える人もいるだろう)と、いうわけだから。

私たちは「正しい選択」を期待されている

このように、現代では以前よりも母になるか否かを決めることができる女性が増えているものの、全員とは言わないまでも大半が「正しい選択」をすることを期待されている。それは常に子どもを産むことであり、常に「正しい」人数が期待されているのである。

しかし、英国の経済学者スーザン・ヒメルワイトは、私たち女性が、子どもを産むことについて──特定の人数の子どもを持ちたいか、母になること自体に関心を持たないかについて──の決定を下す状況の「選択」を必ずしも持っているわけではないと主張している。

現実には、私たちの多くは、今でも多くの社会的制約のもとで、子どもを持っている──または持っていない──のである。抑圧された民族や階級(またはその両方)の女性はしばしば、避妊について誤った情報を与えられたり、避妊へのアクセスが制限されたりし、自身の決定を下す資格がないと見なされる。レイプの結果として、妊娠し、出産し、子どもを育てる女性もいる。また、他からの圧力や、必ずしも自分自身のものではない決定のために妊娠を中絶する(または継続する)女性もいる。精神的または身体的に障害のある女性に、出産や母になることを思いとどまらせるというケースは非常に多く、貧しい女性は、大家族を計画する権利を奪われることがしばしばだ。