前憲法からまったく脱却できていない
その他、議会の権限を強化すること、軍に対する政府の統制を強化することなどの改正箇所もありました。
ただ、主権者は天皇のままであって国民ではなく、相変わらず「臣民」という時代錯誤な用語が用いられ、さらに現在は当然のこととされている「個人の尊厳」や「平等」や「基本的人権の不可侵」という発想もありませんでした。
自由や権利が基本的には「法律の範囲」でしか保障されないという点も従来通りでした。
この政府案がそのまま受け入れられていたとしたら、議会の権限がより強くなり(つまり、より「民主的」になり)、軍に対するシビリアンコントロールが強化されていたなどの点では、確かに従来よりはましになっていたでしょう。
ですが、相変わらず国民は天皇の臣下という立場であり、天皇が主権者のままで、権利の保障も不十分というひどい状態だったでしょう。
なお、これ以外にも松本委員会の中ではさまざまな案が発案されており、より改正の度合いが高い案もあるにはあったのですが(「臣民」という言葉を「国民」にしたり、平等原則を導入するなど)、いずれも「天皇が統治権を持つ」という発想から抜け出せていませんでした。
昭和天皇を訴追しようとしていたオーストラリア
1946年2月にこの松本甲案の提出を受けたGHQは、これでは到底他の連合国を納得させることはできないと考えて、急いで自ら草案を作成するに至ったのです。
オーストラリアなどは昭和天皇を戦争犯罪人として訴追することを主張していましたが、アメリカ(とその傘下のGHQ)は、日本の統治と再建のためには昭和天皇を温存することが必要だと考えていました。
GHQとしては一刻も早く、民主主義や人権尊重などの観点で国際的にも通用するような新憲法を作成して、各国を納得させなければならない立場になっていたのでした。
日本国憲法の草案が非常に短期間で作成された背景には、このような事情があったのです。
GHQが参考にした日本の民間案
GHQが草案を作成するにあたっては、諸外国の憲法だけでなく、日本の民間の憲法案も参考にされました。
この時に大きな影響を与えたとされるのは、高野岩三郎、森戸辰男、鈴木安蔵などの学者グループ「憲法研究会」が作成した案で、天皇主権(統治権)を完全に否定し、国民主権を明確に打ち出していたのでした。
一、天皇は国政をみずからせず国政の一切の最高責任者は内閣とす
さらにこの「憲法研究会」案では、松本甲案には存在しなかった、国民の平等、法律でも制限できない自由の保障、拷問の禁止なども明記されていました。
一、国民の言論学術芸術宗教の自由に妨げる如何なる法令をも発布するを得ず
一、国民は拷問を加へらるることなし
付け加えると、この「憲法研究会」案では、現在の日本国憲法の25条(生存権)の原型となる次のような条項もあったのです。
これはGHQ案には反映されなかったものの、後に帝国議会での審議の際に議員たち(前述の憲法研究会のメンバーだった森戸辰男自身も議員となっていました)によって最終的に付け加えられて、憲法25条になりました(後述)。