当時の政府案が問題だったからGHQ案ができた
以上のとおりで、「日本国憲法はGHQによって押しつけられた」という議論以前に、「当時の日本政府は、大日本帝国憲法を微修正した程度の古い発想の憲法案しか考えていなかった」ということこそが問題なのです。
「9条で戦争放棄をさせるためにGHQは自分の新憲法案を押しつけたのだ」などという意見が世間にあります。まるで戦争放棄の論点以外では当時の日本政府の憲法案の考え方に問題がなかったかのような意見ですが、決してそういうことではありません。
「日本国憲法は1週間でできた」わけではない
このような経過で、GHQは、諸外国の憲法や日本の民間案などを参考にしたうえで、約1週間で自ら日本国憲法の草案を作成しまし、これを1946年2月に日本政府に交付しました。
日本政府はGHQ側と折衝しつつ、これにある程度の手を加えて日本語化したうえで3月に「憲法改正草案要綱」としてメディアに発表し、国民の知るところとなったわけです。
「日本国憲法は1週間でできた」と言われるのは、正確にはこのGHQの草案の段階の話です。
(このGHQの草案は、国会を一院制としたものであり、これを受け取った日本政府が手を加えて「憲法改正草案要綱」にしていく段階で二院制に変更されています)
日本政府はこの憲法改正草案を1946年6月に帝国議会に提出。約4カ月審議して、さらにさまざまな修正や追加が行われ、日本国憲法が完成するに至ったのです。
この憲法案を審議した帝国議会のうち衆議院は、1946年4月に日本初めての男女平等選挙で選ばれた議員によるものでした(ちなみに参議院はまだなく、帝国憲法下の貴族院がもう一つの議院として存在していました)。
この選挙のときに国民は憲法案の報道発表を知ったうえで投票し、そうして選ばれた議員たちが検討しいろいろ修正も加えたうえで、最終的に現在の日本国憲法が作られたというわけです。
この議会の審議の過程では、いくつかの新たな条文が追加されました。日本側で追加した条文として特に有名なのは、25条の生存権と、17条の国家賠償請求権です。
憲法に民意は反映されたのか否か
日本国憲法の誕生のプロセスでは、少なくとも男女平等の総選挙による衆議院議員の審議を受けているので、その限りでは民意が反映されていたことになります。
この点について「連合国の占領下だったのだから、国民の自由な意思が反映されたとはいえない」という意見もあります。そこで今度は、連合国の占領が終わった後の状況を確認してみましょう。
サンフランシスコ平和条約が1952年4月に発効して日本の占領が終わり独立が回復すると、憲法改正を目指す動きが政界で強まりした。
1955年に旧自由党と旧民主党の二つの保守政党が合同して自由民主党が誕生、時の鳩山一郎内閣は憲法改正を国民に強く訴えて1956年の第4回参議院選挙に臨みました。
しかしこの憲法改正を争点とした参議院選挙の結果、改憲派の議席は3分の2に満たなかったのです。
さらに1958年に岸信介内閣も憲法改正を強く訴えて第28回衆議院総選挙を戦ったものの、やはり3分の2の議席が得られず、改憲の動きは挫折したのでした。
このように見てみると、日本国憲法は、まず占領下の総選挙の民意で選ばれた国会によって審議を受けて制定され、さらに占領が終了した後、1956年の参議院選挙と1958年の衆議院総選挙の2回、憲法改正の是非について民意の洗礼を受けて現状維持が選択されたということになります。
少なくとも「今の憲法に日本国民の意思が反映されていない」という類いの主張には無理があることがわかると思います。