困難にぶつかったとき「経験値」の差が表れる

思い出深いのは学生寮での日々です。当時は学生運動が盛んで、毎晩のように政治や哲学の議論が行われていました。ただし八畳一間の5人部屋。出ていく金もないので、左翼も右翼も仲良く同室で過ごしていました。

彼らはずいぶんと熱心に思想を語るのですが、私には興味がもてなかった。非現実的な議論にしか聞こえなかったからです。論戦を吹っかけられたので、私は文学作品のことを話題にしました。背伸びをしたい年頃ですから、彼らも「そんなものは読んだ」という。でも大概は読んだふりです。たとえ読んでいたとしても、作品の細部までは読み込めていない。次第に私が議論の中心になっていきました。

文学作品は、読み手によって何通りもの解釈が生まれます。だから同じ本でも意見が大きく異なることが少なくありません。それが面白い。たとえば同室の人間は、山本有三の『路傍の石』を読んで、「主人公の吾一は自らの境遇を恥じ、卑屈になり、そこから逃げ続けた」という感想をもっていた。しかし、私はこう言いました。

「たしかに吾一には卑屈な面がある。しかし成長するにつれて、自分の不遇に向きあい、乗り越えていく。つまり大人になる過程を描いた物語だ」

『路傍の石』は未完の作品です。体制に批判的な小説だとして圧力を受け、絶筆に追い込まれています。主人公の境遇には自分自身と重なる点もあり、私はこの作品に心酔していました。

大学を卒業するにあたり、「僕が続きを書いて完成させよう」と職業作家を志し、そのために「まず東京に出て社会経験を積もう」と考えました。そこで大学の就職課に斡旋を求めたところ、最初に案内された会社が伊藤忠(商事)でした。事業内容はまったく知らず、社名を「いとうただし」と読んでいた。それでも入社できました。作り話だとよく疑われますが、事実です。

就職してからは、仕事が面白く、作家になる夢はひとまずおいていました。業務に追われるなかで、「あれ、こういう局面は、前にも経験してるな」と感じることが、しばしばあった。採るべき方策が次々と湧いてくるのです。そうした直観に沿って行動すると、実際、事態は予想通りに進み、幸いにも難を逃れられる。「俺には予知能力があるのか」と訝しんだほどです。

そして、あるときに気づきました。おそらく過去に読んだ大量の物語が、データベースとして私の頭の中に収まっている。それが場面や局面に応じて、自然と湧き出てくる。どれだけ時代が進み、技術が進歩しても、文学作品で描かれてきた人間の特質は、依然として我々のテーマであり続けています。

一人の人間が経験できる人生は一つだけです。しかし100冊の心に残るような本を読めば、100通りの人生にも勝る経験を積むことができる。ビジネスの現場で、経験は強力な武器となります。頭のキレだけでは、リーダーは務まりません。上質な小説を読むことは、人生経験を豊かにします。人生経験の乏しい人は、咄嗟の事態にうろたえる。とくに困難にぶつかったときに、そうした「経験値」の差が、対応の違いとして表れるように思います。