65人の大量採用大学ゼミへ攻勢

1935年9月、神戸市に生まれた。姉が2人の末っ子で、戦時中、2度目の疎開先の兵庫県佐用町ですごす。佐用は、岡山県境に近い農林業の地。父は製材会社を率いて、軍需用の特殊な板を手がけていた。

親会社の風圧に負けない反骨精神を染み込ませてくれたのが、終戦前後の小学校教育の激変だ。45年9月、終戦を迎えて学校へ行くと、先生が国語の教科書を出すように言った。1ページ目はナイフで切り、2ページ目は墨で何カ所も黒く消すように指示する。やっていくうちに、教科書は薄くなり、虫食い状態になる。戦時中は軍国主義一色で、竹のムチで子どもをたたく先生もいた。それが、みんな急に「民主主義」を口にする。子供心に「これは、いったい何だ」と思う。先生や学校といった「権威」とされるものに、強い不信感が根付く。

中学から大学まで関西学院ですごし、米シアトルのワシントン大のビジネススクールへ留学。帰国して、日綿実業(現・双日)に入社した。日綿は、社長の肝いりでリース業への進出を計画し、入社3年の身を米国のリース会社へ研修に出す。64年4月、大阪市北区に産声を上げたオリエント・リースは、総勢わずか13人。3カ月後、金沢市のスーパーへ4台のレジスターを納めたのが、第1号の契約だった。

82年4月、大卒の新入社員が65人、入社した。それまで、新卒は毎年10人余り。大量採用は、80年12月に45歳で社長になって最初の大仕事だった。「日日新」に仕事が広がり続けるため、もう、中途採用では埋めきれない。ただ、人事に指示すると、「数倍に採用を増やすには、ツテを持つ先輩社員が足りない」と反論された。思わず「お前たちは会社の成長を妨げるのか」と声を上げる。相手が「じゃあ、おカネを使いますよ」と言うので、またまた「誰が、カネを使ってはいけないと言った」と叱り飛ばす。

81年、経済誌3誌に「ゼミナール訪問」という広告を載せた。ページの上部にゼミの風景写真、下に紹介記事を載せ、一番下に「オリエント・リース」と入れる。東大には断られたが、慶大を皮切りに有名大学のゼミが次々に登場した。大学や学生に好評で、数年間続けた。そのときの最初の入社組が、いま、最若手の役員になっている。

バブル経済が崩壊したときは、比較的早く撤収した。多角化は続いていたし、不動産やホテルなどにも投資したが、若いころにいくつかの事業から早期撤退を決断した経験が、役に立つ。そうは言っても、もっと早く手控えるべきだった。撤退は、ピークを過ぎてからでは遅い、絶頂期のちょっと手前でやめれば、ちょうどいい。でも、そんな「寸止め」は、神でもなければ無理だ。ただ、撤収を決断したとき、社内が一斉に動いてくれたのは、うれしかった。

94年11月、政府の行政改革推進本部の規制緩和検討委員会で、専門委員になった。以来、経済同友会の場も含めて、規制改革ひと筋に取り組む。ときに、規制がなくなる分野へ自分の会社が新規参入することを狙っているのでないか、と疑いの目も向けられる。だが、「現実をみてもらえば、そうではないことがわかる」と割り切った。

気をつけなければいけないのは、いつの間にか、自分たちも規制に守られた側、つまり既得権益者になってしまうことだ。でも、大丈夫だろう。権力への不信感は、もう習い性になった。同じ思いの日本人も、たくさんいるはずだ。危うげな日本になってはいるが、その確信は消えていない。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)