「昭和の唐人お吉」という名のもとに躍らされた

MPや軍医が消毒にうるさいらしく、女たちは消毒の器械や手洗いの設備の説明を受け、熱帯の病毒を持っているものもいるから自分の身は自分で守るよう念を押された。

しかし、そののちに田中が体験したことは、世話役のおばさんに聞いた話から想像したものをはるかに超える生活であった。

田中はその本のあとがきで、「半官半民、公認の売春会社R・A・Aの女となって、「昭和の唐人お吉」という美名のもとに、躍らされた私たちに、その後これという救いもなく、あるのはただ転落の一途のみでございました」と記している。

男を次から次へと抱いては送り、送っては抱き…

『潮』の1972年6月特大号には「進駐軍慰安の大事業を担う新日本女性求む」と題して占領軍慰安にかかわった女性たちの話を載せている。5人の話の概要を記す。

〔RAA慰安所「見晴」の慰安女性〕

三月一〇日の大空襲で他の家族は全員死亡し、ただ一人生き残った。防空壕だけが残り一人では不安なので両親と親しかった知人の男の人に頼み、一緒に壕で生活を始めた。ある夜、寝ているところをその男に強姦された。いくあてもなくふらふらしているうちに、銀座でRAAの立て看板を見た。

戸惑いながらも「どうせ汚れてしまったからだ。衣食住の心配がないだけましだ」と慰安婦になった。

「開店の朝、京浜国道の幅広い道は、アメリカの兵隊で、黒山のような波が襲ってくるようでした。恐怖におびえるまもなく、兵隊が入ってくるなり私を抱くとしびれるほど唇を吸う。そして無我夢中の一瞬が過ぎると、男は再びキスして出ていく。

呆然としていると入れ替わりに次の兵隊がくる。急いで消毒室に駆け込む。さらに送り込まれる男を次から次へと抱いては送り、送っては抱き、相手に対する好意の感情などわく余裕もなく時が過ぎていく……。

午後になり店を閉め遅い昼食をとったときはからだじゅうが痛くて、おなかがひどく疼く。あとで聞くと二三人もの相手をしていました。一カ月もするとお金のためとはいえ、つくづくこの稼業が嫌になりRAAをやめました。

あまりに数多くの男に汚された私のからだでは、まともな仕事などできません。あとは深い深いドロ沼へと……。GHQ、海上ビル、明治ビル界隈で夜の女。アヘン中毒にもなりました。パンパン狩りにあい、警察のお世話になったこともあります」

障子から覗く男のシルエット
写真=iStock.com/liebre
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「きみたちはお国のために働く誇りある女性です」

〔空襲で親兄弟を失った女性〕

知人が「観光事務員の大募集をしている」という話を聞き込んできた。高額な給料、豊富な食糧が約束されている。がつがつした気持ちで応募に行くと、応募者は列をなして群がっていた。採用可。数十人の女性たちに支配人から意外な言葉が述べられた。

「きみたちは特別挺身ていしん隊なのです。お国のため、日本の歴史のために働く誇りある女性です」と。その内容は驚くべきもので米軍兵隊のために特別設置された慰安所で慰安婦をつとめろという。

「慰安婦」この言葉に全身から血のひく思いだった。知人の顔もひきつっていた。二人で逃げようと夜、機会を狙ったがいたるところに武装した黒人兵が仁王立ちになっていて逃げることはかなわなかった。

「観光事業とは真っ赤な嘘で、完全に仕組まれたワナだった。支配人の甘言にのせられ、私たちがバカだったのだ。舌をかみ切る勇気もなかった二人は仕方なく命令に従わされてしまったのである。

連れていかれた部屋のベッドには薄い毛布が一枚あるだけ。シミーズの私が気も狂わんばかりになっていると、男が来た。ニヤニヤしながらトビラにもたれかかりズボンを脱ぎ始める……。何か叫ぼうとしたが、恐怖で声にならない。たちまち男に組み伏せられた私は激痛とともに気を失ってしまった。

ふと気が付くと眼前には別な顔が上下していた。すでに抵抗する気持ちもない、なすがままである」