勤務していた女性の体験談
RAAの慰安所の様子が具体的に描かれた最初のものは、1945年11月の『新生活』創刊号だろう。「敗戦考現学 第一課」という奇妙なタイトルでRAAの慰安所のことが出てくる。冒頭に以下のように記されている。
続いて、女性の体験談が掲載されている。
慰安所で働いて半月の女性は、
「東京では一〇〇〇人の応募者があり、九割が芸妓や娼婦等の経験者だったが、戦地で夫を失った人もいて複雑な気持ちになった。その人はもう決心して、泣いたりする様子はみじんもなく一種の気高ささえ感じられた。私はお吉のような志士的行動のみを追ってもいなければ、ナイチンゲールのような博愛的情熱に囚われているわけでもない。無知な放心状態で、動物的生活的本能に動かされているのでもない。そのくせ女の犠牲という言葉に不思議な魅力を感じている」
と複雑な心情を語っている。
「ここへ来る人はみんな借金のある人ばかり」
また別の女性も、こう事情を述べた。
「今どきのインフレに女一人が子供を抱えて三〇〇や四〇〇でやっていけますかってんだ。ここへ来る人はみんな借金のある人ばかりと言っていい。ちゃんと四分六分の割合で働けば働くほど収入が入る。インフレ成金のおいぼれなんかのお妾になるのと違ってよう。そうでしょう。わかってわかってください……」
『女の防波堤』を著した田中貴美子が小町園に行くことになったときは次のような様子だった。
松造りの豪華な建物に感激し、一緒にいたみんなも上機嫌で、「こんなうちに住めるなら少しぐらいつらくても辛抱するわ」と言っていた。
微笑みを絶やさず優しくサービスするように…
アメリカにもいた世話役のおばさんに、米兵を迎えるやり方をいろいろ説明された。彼女は、アメリカの生活に慣れた人らしく、アメリカ兵は生きるか死ぬかの戦争をしてきた人たちで、長い間女の身体に飢えている上、肉食人種の性欲は激しいので、微笑みを絶やさず優しくサービスすること、チップをはずむ者もいるので微笑みは忘れないことを強調した。
最後に、その世話役のおばさんは処女の人は手をあげるように言い、数十人のうち六、七人が手をあげると、おばさんの「教えますから」の言葉に、海千山千の女たちがどっと笑い崩れたという。