第二次世界大戦の日本の死者中、240万人は海外で

わが国もまた、過去には多くの戦没者を出してきた民族だ。

かつてロシアと日本とは日露戦争で交戦した。実はこの際、ロシア兵の捕虜収容所が愛媛県松山市に設けられ、捕虜は寺などに収容された。捕虜輸送船が110数回にわたって大陸と行き来し、松山に収容されたロシア兵は6000人にも及んだという。松山での捕虜生活はかなり自由だったようで、温泉地や観劇なども楽しんだと伝えられている。

それでも、当地で亡くなったロシア軍人は97人を数えた。その遺体はロシア人墓地に丁重に埋葬され、墓は祖国ロシアの北の方角を向いて立てられている。いまでも献花が絶えない。慰霊祭も毎年実施されており、在大阪ロシア総領事も来賓として訪れている。

松山市にあるロシア人捕虜の墓地
撮影=鵜飼秀徳
松山市にあるロシア人捕虜の墓地

第二次世界大戦では、わが国に多大なる犠牲者を出した。日本人の死者数は軍人が約230万人、一般市民が約80万人の計約310万人といわれている。うち、海外における戦没者は約240万人という尋常ではない数だ。そのうちの9割が、1944(昭和19)年以降の終戦直前での犠牲とされている。

戦時下での葬儀は、開戦直後は手厚く実施された。軍人の葬儀や埋葬は、一般人とは違って特別扱いであった。軍部から仏教界にたいし、英霊は最上級の弔いにするよう指示、通達があったのだ。

英霊の墓である奥津城。オベリスクのように尖塔型
撮影=鵜飼秀徳
英霊の墓である奥津城。オベリスクのように尖塔型

たとえば曹洞宗の場合、檀家に戦死者が出た際には末寺は本山に報告。大本山貫主からは代理が送られ、弔辞が読まれた。また将校(少尉)以上の軍人には、戒名に必ず「居士」を付けるよう命じられていた。太平洋戦争が始まればその制限もなくなり、戦死したすべての兵隊に「居士」が付けられた。