教師、医師、政治家は皆「センセイ」なのか

「先生」「センセイ」と呼ぶ相手はどんな人たちでしょうか。

人それぞれですが、私は、自分に教えてくれた学校の教員や恩師は「先生」と呼びます。同様に、私を真剣に診察しようとしてくれる医師は「先生」と呼びます。軽率な感じの医師は「○○さん」と名前で呼びます。私を教育しようとしてくれたり、私の病気を本気で治療しようとしてくれたりする大切な役割の人に対しては、尊敬と信頼、責任を果たすべきだという願望も込めて「先生」と呼ぶことにしています。

学校の教室
写真=iStock.com/xavierarnau
※写真はイメージです

政治家はどうでしょう。若い記者時代、政治家を取材する時、先輩記者に倣って、国会議員を「センセイ」と呼んでいました。媚びる感じがして抵抗がありましたが、「○○議員」と呼ぶよりは「センセイ」と呼んだ方が、相手が振り向いてくれるかもしれないといった下心があったのかもしれません。

しかし、やがて疑問に思い、ある時から、やめました。自らの利益を優先するような政治業の人が多いと感じ、センセイという呼称がはばかられたからです。重責を果たし切れていない議員を「センセイ」と呼べば、議員が増長し、勘違いしてしまうかもしれないなどと考えました。

被告を「さん」付けで呼ぶようになった裁判官

2014年3月、埼玉県川口市で起きた17歳の少年による祖父母殺害事件。借金があった母親が少年に「殺してでも借りてこい」と指示したといいます。不幸な幼少期だったことなども踏まえ、検察は死刑ではなく、無期懲役を求刑。その年の12月、さいたま地裁(栗原正史裁判長)は懲役15年の判決を言い渡しました。

岡田豊『自考』(プレジデント社)
岡田豊『自考』(プレジデント社)

産経新聞によれば、判決後、栗原裁判長は少年に次のように説諭したそうです。「お母さんにも原因はあるかもしれないが、君の責任はなくならない。ひと2人が亡くなったことの意味を一生考えてほしい」「君が刑期を終えて社会に戻ってくるのを、君を思ってくれている人たちと一緒に、私たちも待っていようと思います」。

裁判長自らも待っている、と呼びかけた栗原さんの言葉は話題になりました。

また、栗原裁判長は、被害者遺族として検察側の証人に立った少年の母の姉に対して、「決してあなたを非難しているわけではないが、周囲にこれだけ大人がそろっていて、誰か少年を助けられなかったのか」と問いかけたそうです。

法廷で裁判官が、自らの思い、感情をどこまで投げかけていいのか、賛否があるかもしれません。でも、栗原さんは、少年のことを自分の頭と自分の心で自考し、判決を本気で出そうとしたのではないでしょうか。少年を殺人犯に追いやった背景に、「社会」の責任もあるとすれば、栗原さんはその「社会」の中に自らをも含めて考えたのかもしれません。

さいたま地裁で裁判員裁判を担当していた栗原さんは、ある裁判員の言葉に影響を受けました。朝日新聞によれば、ある事件の協議中、栗原さんは裁判員から次のように指摘されました。「裁判官って、被告を呼び捨てにするんですね。普通、社会でそんなことってないですよね」。それまで栗原さんの目には「被告は裁かれる対象にすぎない異分子」と映っていたそうです。しかし、その裁判員は、被告を同じ社会にいる構成員、いわば“仲間”と捉えていました。

栗原さんは、それから、被告に「さん」を付けて呼び、丁寧語で語りかけるようになったそうです。やり方を変えたのです。上から見下されるのではなく、「さん」付けで呼ばれ、丁寧な言葉で語りかけられた被告は、何を感じるのでしょうか。

同じ目線に立とうとする裁判官の言葉は、被告の心に響くのかもしれません。

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