「怒号さん」が秘書に伝えた意外なひと言

【中村】土光さんの「現場主義」「人間は平等」という点では、こんな思い出があります。

ある日、土光さんと懇意にされていた某財界人が、秘書の私を通して面談を申し入れてこられました。

私も、お二人の関係やご事情はよくわかっていましたが、ほかの面会や、仕事の優先順位の関係で、どうしてもすぐにアポイントを入れることができなかった。先方には、私から丁寧にお返事を差し上げ、事情を説明しました。

翌朝、土光さんのいる会長室に呼ばれました。土光さんは、社員をよく叱責したり、怒鳴ったりしたので「怒号さん」の愛称で呼ばれていました。私も雷を落とされるのではないかと覚悟しました。

聞けば、昨晩、某財界人の方が、土光さんの自宅を訪ねてきて「あの秘書はけしからん」とクレームをつけて「この場で面談の日時を決めてくれ」と直談判したそうです。

土光さんは、その方に対して「スケジュールはすべて秘書の中村に任せているので、昼間に彼と話をしてくれ」と伝えたというのです。直談判にも応じない土光さんに対して、相手は諦めて帰っていったそうです。「怒号」を覚悟していた私にとって、土光さんの反応は意外なものでした。

親しくされている経営トップと30代の秘書。土光さんは、私と某財界人に優劣をつけず、現場を尊重し、対等にあつかってくださったのです。私は感激し、同時に強い責任も感じました。

土光会長(中央)と筆者(右端) 『バチカン大使日記』より
土光会長(中央)と筆者(右端) 『バチカン大使日記』より

「できない」「なぜなら」は許されなかった

——土光敏夫の元ではどんな仕事をしたのでしょう。

【中村】もっとも印象に残っているのが、スピーチライターを任されたことです。

土光さんの注文はたったの二つ。「絶対に同じ話を書くな」「オレの知らないことを書け」です。

誰にも頼れずに毎回必死で原稿を書きましたが、とても勉強になりました。某財界人の話もそうですが、仕事をまかせた者に権限をすべて委ねる。

不思議なもので、だれにも頼れない状態になると、強い責任感と使命感が沸き上がり奮い立つんです。

その代わり、言い訳は一切許されませんでした。

「常に解決策を持ってこい。前向きに取り組め。『できない』『なぜなら』と言うな」が基本でしたからね。

もちろん、土光さんが自分に人一倍厳しく、率先垂範するから、部下であるわれわれは全力でその意に沿おうと努力しました。その結果、事務局員みんなが一致団結して解決策を自ら見いだすようになり、経団連は強靭きょうじんな組織になりました。