誰だってネガティブになる

たしかな人生の指針があれば、なにがあってもネガティブな思考に吞まれることはない――。

そういう意味合いの言葉を、過去の多くの偉人たちが遺している。

でもぼくは、すんなり腹落ちしない。

人生の指針をいくら確立していたところで、重いアクシデントに見舞われれば、どうしたって落ち込む。ネガティブな思考におちいる。

そしてアクシデントは不可避だ。それをすべて一蹴できるほど、ぼくは強くない。超人でもないかぎりだれだってそうだろう。

なかでもいちばん応えるのは、信頼していた相手からの裏切りだ。

ぼくはかつての、いわゆるライブドア事件でそれをたっぷり味わった。

事件の直後、信頼していたはずの仲間の一部がマスコミに向けて、あるいは法廷において、ぼくを貶めるような、事実に沿わない発言を一方的に繰り返した。

ただ呆気にとられた。ショックだった。

いまを楽しむために、諦めることも必要

なぜそのようなことをしたのか、彼らの本心はわからない。

でも彼らを恨んでいるかといえば、そうではない。

それどころか、べつにこれは強がりでもなんでもなく、まったく恨んではいない。

彼らの本心がわからないかぎり、ぼくにできることは「許す」という一点しかないのだ。

『海よりもまだ深く』(是枝裕和監督)という映画がある。

小説家志望の中年男が主人公だ。妻から愛想をつかされて離婚、愛しいわが子とも離れ離れ。それでもろくに定職に就かず、燻った日々を送っている。そんなうだつのあがらない中年男のささやかな物語だ。

あるとき、その男が部屋で物思いにふけっていると、年老いた母親が小さなため息を吐き、語りかける。

「なんで男はいまを愛せないのかね? いつまでもなくしたものを追いかけたり、叶わない夢をみたり。そんなことしていたら毎日楽しくないでしょ」

ひとはいまを生きなければ意味がない、ひとはいまを楽しむことしかできない、だからときに諦めることも必要なのだと、年老いた母親は息子に諭す。

ぼくは何事であっても諦めるのは嫌いだ。でもある種の諦観はもって生きている。