スクープをいとも簡単にとってくる違和感

それよりも大きな違和感を持ったのが、新聞記者というのは「いとも簡単にスクープが取れる」かのような描き方であった。

データ集めは助手たちに任せ、取材先の役人たちの住所も簡単に割り出す。目ぼしの人間を待ち受けて問いかけるが、相手が拒否すると簡単に引き下がってしまう。「何かあったら電話をください」といって名刺を手渡すだけ。これでは「御用聞き取材」といわれても仕方あるまい。

それでも、取材相手は自ら彼女に電話をかけてくるから不思議だ。文書を改竄したことを苦に自殺した人間の「遺書」を、自分のことを慕って新聞社を志望する若者を介して、いとも簡単に手に入れてしまうのである。

同じテーマを血眼になって追いかけていた新聞記者たちがこれを見れば、「オレたちの苦労がほとんど描かれていない」と思うはずだ。

実際は、NHKにいた相澤冬樹記者が、森友学園疑惑を執拗しつように追い続け、官邸と近い上層部に疎まれ、記者職から外されてしまった。何としてでも事件の真実を明らかにしたい相澤氏は、NHKを辞めて地方紙に移り、事件を追い続ける。

2018年に『安倍官邸vs.NHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由』(文藝春秋)を出し、それに感銘を受けた赤木俊夫氏の妻・雅子さんが連絡して信頼関係を築き、夫の遺書を見せ、その内容が週刊文春にスクープ掲載されるという経緯をたどっている。

弱腰のデスクが東京新聞の人間だと誤解されないか

いかつい新聞記者が主人公では、多くの視聴者が見てくれないと制作側は考えたのであろう。だが、実際の事件をほぼ忠実にトレースしているのに、一番の核心部分をご都合主義で変えてしまったため、つじつま合わせに終始してしまったところに、このドラマが骨太ではなく、女性記者のお涙ちょうだい的ドラマになった決定的な“弱点”があると思う。

この中で一番驚いたのは、米倉が大スクープであるはずの遺書をデスクに見せるシーンだ。デスクは、「これはやらない」というのである。官邸筋から圧力がかかっているから、「オレにはどうしようもない」と顔をゆがめるのだ。

放映前にこれを見て、全面協力した東京新聞は怒らなかったのか、不思議でならない。

望月が東京新聞社会部の記者だということは周知の事実である。とすれば、この間抜けで弱腰のデスクは東京新聞の人間だと、見ている視聴者に誤解される可能性は大いにある。これを見た新聞記者志望の学生たちは、東京新聞だけには行くのをよそうと思うのではないか。

東京新聞の“名声”は地に堕ちる、そうは考えなかったのだろうか。