「事実を正しく伝えてほしい」に望月記者は…
読売新聞社会部出身でノンフィクション作家の本田靖春氏は、記者は“家庭”とは距離を置けといっている。
「家のことを顧みないのは、いけないことである。しかし、それは、カタギさんたちの世界の話であって、私たち新聞記者という名の『ヤクザ』にとり、家庭なんか二の次だと思う。だれが何といおうと、そうなのである。だって、自分や家族のことは手抜きになっても、公共のため自己犠牲を厭わない人間が、全体のうちの〇・五パーセントか1パーセント程度いなくては、社会が保たないではないか。そういう気組みのない人間は、新聞社を去ればいいのである」(『我、拗ね者として生涯を閉ず』講談社刊)
本田氏が今いれば、子どもをダシに使って取材先に取り入ろうなんて、記者の風上にも置けないというのではないか。
こうしたトラブルの間にも、Netflixのドラマ制作は進められていた。それを知った雅子さんは、夫の遺書を託した相澤氏と相談して、河村、望月両氏を交えて話し合ったそうだ。
雅子さんは、財務省には散々真実を捻じ曲げられてきたから、登場人物が明らかに私だと分かるのであれば、多少の演出はあるにしても、事実をできる限り正しく伝えてほしいといったという。
ドラマでは当初、赤木夫妻に子どもがいるという設定が考えられていた。これについて望月記者は、「雅子さんに子どもがいたという設定なら、事実と違ってフィクションになるからいいじゃないですか」といったという。
遺族の哀しみを描くことを疎かにしたという問題点
あまりに無神経な発言である。このドラマ全体が新聞記者の苦労や遺族の哀しみを描くことを疎かにし、ひたすら権力は悪だと決めつけるプロパガンダに固執しすぎているように思える。
子どもがいれば、視聴者はより悲しみ、より権力を憎むのではないかという“安易”な考え方からではないのか。
女性記者を主人公にしたいがために、森友問題を追い続け、遺書を託された相澤記者を排除してしまった。その代わりに、新聞記者志望の雅子さんの甥という大学生を登場させ、彼の仲介で雅子さんと会い、何の苦もなく遺書を手に入れるというストーリーにしてしまったことが、このドラマの最大の問題点である。
望月記者が遺書をスクープすることができなかった腹いせに、自分がスクープしたようにドラマの脚本を“改竄”したのでは? 功名心が罪悪感を払拭したのでは、などという批判がツイッターなどに見られる。
このドラマの制作に望月記者が少しでも関わっていたのなら、女性記者が入手したようにする筋書きは相澤氏に失礼だし、自分としても変な誤解を与えたくないからやめてくれと、強く抗議し、事実に則して脚本を変更させるべきではなかったのか。