各都道府県には「旧制第一中学」と呼ばれる名門公立高校がある。これらの高校では、1980年代まで苛烈な受験指導が行われていた。教育ジャーナリストの小林哲夫さんは「平日の授業時間は8時間で、山のように宿題を出していた。睡眠時間は4時間以下があたりまえで、『四当五落』と言われていた」という――。(第2回/全3回)

※本稿は、小林哲夫『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。

ノートを書く男のクローズアップ
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英語の授業中は一言も日本語がなかった

猛烈な進学指導――県高、上野、鶴丸のスパルタ授業

1950年代から80年代にかけて、一中のなかにはかなり無茶な受験指導を行うところがあった。

新潟高校は1950(昭和25)年に東京大合格者を21人出した。目を見張る数である。この年、同校では初めて女子を受け入れた。その1人の回顧録が学校史に記載されている。

「入学してまず驚いたのは「君たちは4時間寝れば十分」という教師の一言であった。日比谷高校に追い付け追い越せの雰囲気で、たとえば英語の授業中は一言も日本語がなかった。中学では自信があった彼女も1年間はまごつき、午前2時前に寝たことはなかったという」(『青山百年史』1992二年)

いま大学受験の勉強で四当五落(睡眠は4時間までなら合格、5時間以上は不合格)を推奨する教員はどこにもいないだろう。

1960年代、大分上野丘高校も進学競争で過熱ぶりを示した。平日8時間(土曜日7時間)、学力別編成、早朝補習、テスト即日採点・翌日成績発表、クラス編成は1年生からコース別、実力試験で成績順に編成、ホームルームをなくして能力別授業を実施、試験で生徒のクラス「入れかえ」を行い競争心の植え付け、全校一斉放送による漢字書き取りテスト……などだ。

結果は出た。東京大合格者が1965年11人、66年15人、67年23人と増えた。学校新聞も「県下の俊英集まる」と見出しを掲げ自画自賛し、地元紙にも「意気高々と上野丘高 開校以来の大記録 肩を叩いて「よかった、よかった」」との見出しが躍った。