明治期に作られた「第一中学」の流れをくむ都立日比谷高校は、かつて東大合格者数で日本一の実績を誇っていた。ところが、ある時期から低迷してしまう。教育ジャーナリストの小林哲夫さんは「1967年に導入された学校群制が、進学エリートコースを崩壊させた」という――。(第3回/全3回)

※本稿は、小林哲夫『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。

都立日比谷高校通用門と校舎
都立日比谷高校通用門と校舎(写真=Rs1421/CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons

東大合格者数が低迷し続けていた日比谷高校

天才、秀才、神童が集まること――それが一中のプライドの根拠と言える。そのプライドが大きく傷ついてしまう体験をした一中がいくつかあった。

優秀な中学生が一中に入りたくても入れないことが起きる。その結果、優秀な生徒が集まってこなくなり、難関大学への進学実績が大幅に落ちてしまう。総合選抜(以下、学校群制度、合同選抜、グループ選抜、総合選抜を総称して「総合選抜」と記す)、学区制変更、通学区制限によって、ある時から一中は優秀な生徒を集めることができなくなってしまった。

小林哲夫『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)
小林哲夫『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)

もっとも顕著な例が、学校群制導入後の日比谷高校である。さらに歴史をさかのぼると、戦後、新制高校に移行した時の高知、京都、広島で、一中の大きな“受難”を見ることができる。その過酷な運命をたどってみよう。

1967(昭和42)年に東京都は都立高校に学校群制を導入し、日比谷高校は三田高校、九段高校と11群という学校群を組んだ。日比谷を受験するのではない。11群を受け、合格すればこの3校に振り分けられるのだ。そこに受験生の意志が反映される余地はなかった。

日比谷の東京大合格者数は1964年の193人がピークとなっており、学校群1期生が卒業した1970年は99人となった。71年は57人、72年は52人、73年になると29人となった。わずか3年で70減るという現象はほかの高校では例を見ない。このあとさらに減り続け、77年14人、81年4人、93年には史上最少の1人となる。

日比谷が東京大合格実績を落としたのが、学校群制によるものであることは火を見るよりも明らかだった。背景の一つに、優秀な生徒が日比谷を志望したが運悪く他校にまわされたことがある。これはわかる。もう一つ、日比谷に運良く入れることになった優秀な生徒が入学を辞退して他校に進んだ。これはどういうことなのか。