学校群制で“進学エリートコース”が崩壊

日比谷高校に入学するための近道と言われる小中学校がある。千代田区の番町小、麹町中だ。地元ではエリートコースと呼ばれており、日比谷に入れたいため、これらの学校に通える学区に転入してくる教育熱心な家庭があった。1965年、麹町中から日比谷高校への進学者は87人を数えた。同級生のなかで群を抜く人数である。当時、このコースに乗っている子どもの保護者がこう話す。

「主人は2流私大の出身で、苦労しましたからね。こどもにはこの悩みを味わわせたくないのです。そして、東大を出て親のカタキをとってくれ、という気持でいっぱいなのです」(『週刊現代』1966年3月1日号)

ところが、学校群制によって「日比谷高校予備校」のような麹町中で異変が起こった。日比谷愛が失われつつあったのである。麹町中の保護者の声を伝えている。

「去年までだったら、麹町中学から日比谷へ入るには100番以内の成績でないと無理だったんですが、今度は500人のうち400番以下でも入っているんですってよ。そんなデキの悪い子と一緒は心配ではありませんか」(『週刊朝日』1967年3月24日)

この「400番以下」は信憑性にかなり欠ける。十分な根拠、データのない発言であり、受験生と保護者の歪んだ心理が示されている。学校群制以前ならば、日比谷には東京大を目ざして優秀な生徒が集まった。しかし、学校群制で優秀ではない生徒も日比谷に振り分けられる。そのような環境では難関大学突破はむずかしい。ならば、ほかの進学校に通わせたほうがいい――ということである。

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有名私立のすべり止めにされていた日比谷高校

それは日比谷もわかっていた。同校教諭のこんなグチ、皮肉が伝えられている。

「すべり止めに日比谷を受けるのがいるんですよ。たとえば、麹町中の優秀なのが、一応は日比谷を受ける。ところが付属や有名私立大に受かると、日比谷をやめてさっさとそっちの方に行っちゃう。学校群が日比谷をつぶすことがねらいなら、その目的は半ばが達せられたことになるでしょうが、付属や有名私立への集中をどう考えたらいいでしょうか」(『週刊朝日』1971年4月2日号)

前提として一中絶対主義、日比谷中心思想がある。日比谷が「すべり止め」にされるのは屈辱だったのだろう。付属とは東京教育大附属、同大附属駒場、東京学芸大附属、慶應義塾などである。有名私立は開成、武蔵などだが、学校群制以前は逆にこれら「付属や有名私立」が日比谷のすべり止めだった。

学校群制を導入した責任者である当時の都の教育長、小尾乕雄氏はこう話している。

「某新聞がインタビューにきたんです。東大の合格率が減るんじゃないか、と聞かれたから、減りませんと答えたんですよ。有名校の数がふえて、お互い、競争するから減ることはない。〔略〕日比谷、三田、九段の3校を日比谷高校と思えばいい」(『週刊文春』1966年8月1日号)