「日比谷を2つも3つもつくる」という目論見だったが…

学校間格差が解消できるとして、学校群制を支持するメディア、評論家から援護射撃があった。のちにノーベル文学賞を受賞した作家、大江健三郎氏は支持を表明している。

「ぼくは早くからエリートを分けて、特別な教育をして東大から企業へと送り込むことに反対なのです。できるだけ、長い間、いろいろな人間とつきあい、ともに学んでそれ以降に大学へ行くほうがよいと思います。そのほうが画一的でない人間をつくるのに有効だと思います。だから、学校群に賛成です」(『朝日ジャーナル』1967年11月13日号)

大江氏は一中の松山東高校出身だ。学校群制導入から十年後、先の小尾氏はこう話している。

「私の構想では学校群によって受験に有利な名門校をふやし、その上で学区の細分化をはかろうと思ったわけです。当時私が「日比谷を2つも3つもつくる」といったのはそういう意味だったんです。それが少しは高校格差の是正にもつながるだろうと思ったのです」(『週刊朝日』1976年4月8日号)

一中をたくさん作るという目論見だったらしいが、失敗に終わった。「日比谷つぶし」への弁解にもなっていない。

1972年、日比谷からの東京大合格者52人のうち現役は12人だった。減少に歯止めはかからない。学校群の日比谷、三田、九段の東京大合格者数は合計で75人。日比谷が100人を超えていた1960年代には遠く及ばなかった。「日比谷を2つも3つもつくる」どころか、東京大への進学校「日比谷」の存在がなくなりかねない。

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93年には東大合格者数は1名に

同校の進学指導担当教員はこう話す。

「われわれの11群は3校1群という特殊な事情がありましてね。ますます生徒は迷う。その結果、11群そのものを敬遠する傾向があるんですよ」(『週刊新潮』1972年4月1日号)

学校群ではその多くは2校が組んで群となっているが、日比谷の11群は3校が組まれていた。受験生からすれば志望校へは3分の1の確率でしか入れない。ならば11群なんか受けたくない――そうして、日比谷にこだわらない、という思いが強くなったのも自然であろう。一中のブランド力は通用しなくなった。

1973年、東京大合格者は29人で、ランキング18位となった。こうした状況について、日比谷の教員の学校群に対する非難はおさまらない。

「日比谷が圧倒的に東大合格者を出していた現実をぶっこわそうとしたんです〔略〕いい生徒だって三等分されては入ってくる中学生の学力だってレベルダウンだって当然のことです」(『週刊読売』1973年4月7日号)

1970年代、すべり止めの日比谷は東京大合格実績で低迷し続け、1980(昭和55)年には、開校以来初の1ケタとなる。

1982(昭和57)年、学校群制が廃止され、グループ選抜が採用される。これによって学校を選べるようになり、日比谷を志望して合格すれば入学できた。しかし、東京大合格者数はふるわない。1990年代も底を打ったままだった。93年、合格者は1人だけになってしまう。