かつては多くの一中が独自に予備校を経営していた

補習科の存在――“最強”の予備校、岡山朝日には健在

一中には学校が経営する予備校がある、と言ったら驚かれるだろうか。

現在は岡山朝日、松江北、高松などしかないが、かつては安積、日比谷、鳥取西、広島国泰寺、修猷館しゅうゆうかん、鶴丸などに設置されていた。「○○高校補習科」「○○学館」などと呼ばれていた。河合塾の前理事長、河合弘登氏は1965年に日比谷高校を卒業後、同校の補習科に通っていた。こうふり返っている。

「東大受験に落ちた私は、補習科に入る試験を受けると同時に、駿台予備学校の入学試験も受けました。なぜ河合塾ではなく駿台だったかというと、そのころ河合塾はまだ東京に進出していなかったからです。両方合格したので、日比谷高校の補習科に行くことにしました。同じく東大受験に失敗した仲間もみんなそうしたからです。/でも、補習科は、高校時代と教室も同じ、教える先生も同じ、周りも同じ顔ぶれ。何もかも高校時代と変わらないため、気持ちがうまく切り替わらず、結局、2度目の東大受験にも失敗。結果、併願していた慶応義塾大学経済学部に進むことにしました。あの時、補習科ではなく駿台を選んでいたら、東大に受かっていたかもしれないと後から思うことがよくあります(笑)」(NIKKEI STYLEキャリアリーダーの母校 2018年2月12日)

福岡では、修猷館高校が修猷学館、筑紫丘高校が筑紫丘学館、福岡高校が福高研修学園という予備校を持っていた。

福岡市早良区にある福岡県立修猷館高等学校
福岡市早良区にある福岡県立修猷館高等学校(写真=hyolee2/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

九州にいても東京の有名教授の講義が受けられた

1970年代前半、授業料が年間で修猷館卒は11万円、他校卒は14万円だった。ほかの地元予備校は20万円以上だったので、半額だった。メインとなる講師は修猷館を定年退職した教員だが、現職の教員もまざっている。修猷学館は受験に失敗した浪人生の救済という大義名分はあるが、一方で、退職した教員の受け皿という役割も担っていた。

事実上、県立予備校と言われていた修猷学館の存在を問題視していたのが、福岡県教職員組合である。修猷館の教員が勤務時間外に予備校で教えれば疲弊するだけで、教育労働者を守る観点から由々しき問題である。また、放課後、職員会議を開こうにも予備校で教えている教員が不在となれば、人が集まらない。教育運営上、これも由々しことだ、と批判していた。

1974年、修猷学館の校長だった樗木昇一校長は次のように話す。

「宣伝らしい宣伝はなんもしよらんとですが、生徒はよう集まりますな。他校からの生徒には修猷館4年生のつもりでおれ。一年間でええから修猷の生徒に混じって、そのみちを修むる、修猷の心を学べ。そういうのですが、ま、予備校としては半プロですかな」(『週刊朝日』1974年4月16日号)

ブランドもあり、県下トップ校で教える教員のノウハウも期待される。しかも、授業料は半額だ。これではかなわない。地元・福岡の予備校も黙ってはいられない。

福岡の老舗予備校、水城学園は受験雑誌でこう謳っていた。

「東京の一流教授が常任講師として多数来講され、九州にいて東京の有名教授の名講義が聴けるという地方予備校の壁を破った予備校です」(『螢雪時代 全国大学受験年鑑』1975年)