世界中から注目を集めたカジノのネオン照明

ネオンのはじまりは1898年。イギリスの化学者ウィリアム・ラムゼーによって大気中に極微量に存在するガスが発見され、『新しい何か』を意味する『NEON』と名付けられる。

1910年、フランスの科学者であったジョルジュ・クロードによってネオン管が発明された。彼はネオンガスを封入したガラス管の両端を繋いで放電すると、発光することを発見した。

同時に、ネオンガス、アルゴンガスを封入し、塗装したガラス管を利用すると、色々な色に発光することも発見する。現代におけるネオン制作の原理のほとんどはクロードによって発明された。

1912年、その新発見はパリ万博で公開される。それまでの広告照明は白熱電球が主流で、小さな電球を並べるだけで表現の幅も限られていた。ネオン管は高い光量の割には光質が柔らかく、線で発光し、どのような色でも表現出来るため、広告照明として一気に普及していった。

1920年代、アメリカ、ラスベガスでネオンが積極的に利用されるようになり、煌びやかで斬新なカジノのネオン照明は世界中から注目を集めた。

ネオンサインが日本にはじめて出現したのは1918年、銀座タニザワとして現在でもその名が残る、谷沢カバン店の店頭と言われている。それは1mの長さの赤色ネオン管3本を、ただ直列につないだ、至ってシンプルなものであった。

戦前のネオンの普及は小規模のカフェやバーなどに始まり、徐々にキャバレーなどの大型店でも採用されるようになり、次いで一般企業の広告にも使われるようになった。

戦後、壊滅状態となった都市部では電力不足が続いたが、電力事情が好転した1949年にやっとネオンが解禁となり、銀座四丁目交差点を中心にビルの屋上に企業のネオンサインが灯りはじめた。ネオンは戦後の好景気と共に、各地の都市を照らし続けていくこととなった。

バブル崩壊後もネオンは変わらず、主な広告照明として使用されてきたが、2000年代初頭に誕生したLEDの普及によって、急速にネオン需要は縮小していった。その流れは震災後の電力不足を端緒とした政府によるLED普及の推進によって、さらに加速していった。

10代20代の若者がシェアするオリジナルネオン

かつての大手ネオン制作会社アオイネオンの荻野隆さんによると、15年前まで、会社の売上の多くを締めていたネオンの売上は、予想を上回るスピードで減少していき、現在では1%未満まで下がっているそうだ。4人いた職人も今は1人になっている。

東京都台東区(筆者撮影)
東京都台東区(筆者撮影)

技術習得にかかる時間もネオンではかなりの年数を要し、職人の数が減った分、技術の継承が難しくなっている現状がある。アオイネオンのネオン職人、横山幸宜さんによると、ガラス管にガスをきちんと入れられるようになるまでには、特に鍛錬が必要で、それには10年の時間がかかるという。

今、東京タワーで開催され話題を呼んでいる『大ネオン展』の仕掛け人が、上に挙げた、アオイネオンの荻野隆さんだ。彼は、最後に残った職人の技巧を衰えさせないためにも、ネオン制作における新たな分野を開拓していった。

2018年からアーティストに無償で作品を制作する活動をはじめ、電気グルーヴの石野卓球さんなどにオリジナルネオンを提供し話題を呼んだ。またネオンを使った作品を制作するアーティストに参加を呼びかけ、去年から『大ネオン展』を各地で開催している。

12月現在、来年の1月6日までは、東京タワーで開催され、連日多くの10代20代の若者が集まり、インスタ上に参加アーティストの作品がシェアされ続けている。

今回の『大ネオン展』にも参加している、はらわたちゅん子さんは近年多くのブランドとコラボレーションしており、今年10月に台湾にオープンしたユニクロ全球旗艦店では、彼女が描いたネオン画が店内に埋めつくされている。日本のネオンブームは海外にまで拡まりつつあるのだ。