江戸時代の公家は収入が乏しく、貧乏な家も多かった。歴史家の安藤優一郎さんは「少しでも収入を得ようとした中小公家に人気の副業があった。家康の命日に合わせ日光東照宮に派遣される使者・日光例幣使だ」という——。

※本稿は、安藤優一郎『江戸の旅行の裏事情』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

栃木県日光市にある東照宮
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貧乏公家に「日光出張」が人気だった理由

元和二年(一六一六)四月十七日、徳川家康は駿府城で波乱万丈の生涯を終えた。その遺言により、遺骸は駿河国久能山くのうざんにいったん埋葬されたが、翌三年(一六一七)には日光山に改葬される。

同年三月に、家康を祀る東照社が二代将軍秀忠により造営されたからだ。日光への改葬も家康の遺言に基づく対応であった。

前月の二月、朝廷は家康に「東照大権現」という神号を与えた。この神号に因んで東照社と名付けられたのである。そして、家康は「東照神君しんくん」となった。

天台宗の日光山輪王寺りんのうじが東照社を管轄したが、そのトップの貫主(輪王寺宮という)は皇族つまり宮様で、京都から法親王(出家した親王)が迎えられるのが習いだった。

東照社の建物が面目を一新するのは三代将軍家光の時代である。寛永十一年(一六三四)、家光は総工費五十六万八千両を掛けて社殿の大改築を開始した。それから二年後の同十三年(一六三六)に壮麗な社殿が完成をみる。

正保二年(一六四五)、東照社は朝廷から宮号を下賜され、以後東照宮と呼ばれるようになった。日光東照宮の誕生である。