徳川家康の命日に合わせて派遣された勅使

以後、日光には将軍をはじめ諸大名や公家、そして一般庶民も参詣した。併せて、日光街道の整備も進み、現存する杉並木も植樹されていく。

毎年、家康の命日にあたる四月十七日には例祭が執行された。将軍みずから参列することもあり、これを日光社参と呼ぶ。

日光社参は往復で八泊九日の道中だったが、将軍に御供をする形で諸大名も随行した。もちろん、将軍も大名も大勢の家臣を連れて日光に向かったため、幕府や藩は莫大な出費を余儀なくされる。

沿道の農民たちも幕府から助郷役すけごうやくを賦課され、その負担に苦しむ。助郷とは、物資輸送を目的として人馬を提供することであった。

そのため、幕府は次第に日光社参を控えるようになる。毎年の例祭には将軍の名代という形で代参使を派遣することで済ませた。日光への代参使を務めたのは、殿中儀礼の指南や勅使の接待を職務とした旗本の高家こうけである。

神職員
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「日光例幣使」の派遣とは何か

日光東照宮の例祭には幕府だけでなく、朝廷も幣帛へいはくを奉献するための勅使ちょくしを派遣した。この勅使は「奉幣使」と呼ばれ、毎年派遣されたため「例幣使れいへいし」とも称された。

東照宮への奉幣使派遣とは、そもそも幕府からの要請に応えたものだった。一方、幕府は朝廷の権威を借りることで東照宮の権威向上を狙った。

最初に奉幣使が派遣されたのは元和三年のことだが、正保三年(一六四六)からは毎年の派遣が恒例となる。ここに、日光例幣使の歴史がはじまる。

例幣使に任命されたのは、朝廷では参議などを務める中級クラスの公家である。一行の人数は五十~六十人ほどで、家康百回忌など特別な時は倍増となる。

例幣使は、どういう経路を取って日光に向かったのか。

京都を出立した例幣使は、まず中山道を経由して東へ向かう。碓氷うすい峠を越えて関東に入り、上野国の倉賀野宿まで進んだ。この倉賀野宿で中山道を離れて道を東に取ったが、倉賀野宿から下野国の楡木にれぎ宿までが、日光例幣使街道と称された道筋だった。楡木宿からは日光街道壬生みぶ通りを今市宿まで進み、今市からは日光街道を進んで目的地の日光に至る。