敵も味方も、心に深い傷を負う「被害者」

【斎藤】近年のアニメであれほど「人体」が破壊される作品も珍しく、恐らく『進撃の巨人』や『東京喰種トーキョーグール』を凌駕しています(笑)。ですから、ディズニーやジブリ作品のような万人受けする健全さのようなものはなくて、それがいいのだ、という逆説的な評価もあるでしょう。

しかし、そうした捉え方だけでは、社会現象にまでなった理由としては弱い気がしてなりません。一歩引いて眺めてみると、「鬼滅ブーム」には、いろいろ不可解な面があるのです。

【佐藤】斎藤さんは、どのように分析するのですか?

【斎藤】「分かりやすい」とは言いましたけど、登場人物自身は、みな相当複雑なものを抱えています。剣士たちは、鬼に親族を殺されたり、あるいは親に虐待を受けたり、といった「トラウマゆえに正義を背負ってしまった人たち」。一方の鬼も「トラウマゆえにモンスター化した人間」の隠喩だというのが、私の解釈です。

要するに、敵も味方もほぼ全員が心に深い傷を負う「被害者」なんですよ。言ってみれば、あれは心的外傷を抱えた者同士が殺し合う物語で、そこがまず、普通の“王道バトルもの”とは違います。

手で制止して身を守ろうとする青年
写真=iStock.com/Serghei Turcanu
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悪にも敵にも「事情」があることを描き出している

【佐藤】なるほど。精神科医ならではの見立てだと思います。

【斎藤】作品には、炭治郎が、自分が倒して消えていく鬼の手を握るシーンが出てきます。これも、単なる「死にゆく者への同情」と捉えるわけにはいきません。悪に対してはきちんと罰を与えつつ、その上で存在自体は肯定するわけです。

【佐藤】鬼だって、もともとは人間だったのだから。

【斎藤】そう。悪にも敵にも「事情」があることを、とても丁寧に描き出しているのも、「鬼滅」の特徴と言えるでしょう。

鬼殺隊のメンバーによって殺される鬼たちは、みんな死の直前に走馬灯を見ます。そのほとんどは、忘れていた「被害の記憶」なんですね。つまり、その瞬間、「人間」に戻るのです。人間になって、初めて彼は自らの責任を自覚し、そして尊厳を持った責任の主体として消えていく。そのように見ていくと、この作品は、「加害者に転じた被害者をいかに処遇すべきか」という問いに対して、ぎりぎりの、しかしこの上なく優しい回答を試みている、と解釈できるかもしれません。

【佐藤】昨今の様々な事件に対する特にネット上の「世論」を見ていると、「とにかく悪い奴には罰を与えろ」的な単純な議論が、ますます幅を利かせる状況になっているようにも感じます。

【斎藤】そうした風潮に対する問題提起、といったら深読みのし過ぎかもしれませんが。