神の存在について「わからない」と言えるのは日本人だけ?
「信じる」か「信じない」かのベクトルとは別に、「信じる」あるいは「信じない」と答えた割合が多いか、それとも「わからない」とする人が多かったかの違いのベクトルがある。後者のベクトルでもっとも目立っているのは日本である。
意識調査一般に関して、日本人は「わからない」と回答する比率が多い点がかねて指摘されている。意識調査の統計分析の権威・林知己夫は海外比較を含めた国民性調査の長い蓄積から、日本人らしさの特徴として「中間的回答の多いこと」を挙げている。ここで中間的回答とは、「非常によい」と「まあよい」なら、「まあよい」のほうの回答、また「どちらともえいない」「分からない」といった回答を指す。
この点に関して、私は、狭い島国でいさかいをせずに同居するため、日本では互いにケンカにならないように、あいまいな言い方をするようになったためと考えているが、風土論的に次のように説明されることもある。
気候学者の鈴木秀夫によれば、〈ドイツ人は、わからないという状況が耐え難くて、物事の理解より自分の意見をはっきり持つということを優先する態度をとる。例えば、よく知らないにもかかわらず訊ねられた道をきっぱりした態度で教える。これに対して、日本人は、人間の判断を空しいものとみなす仏教の思想に影響されている。理解していることでも自分の理解は不十分なのではないかと感じ、むしろ「わからない」と回答するほうがしっくりする気持ちを抱く〉といった主旨の解説をしている(『森林の思考・砂漠の思考』NHKブックス、p.14~18)。
そして、こうした東西の考え方の違いを気候風土に影響されて生まれたものとしている。すなわち、乾いた大地において水場に向かう道としてどちらかを選ばざるを得ない西洋の「砂漠の思考」に対して、どちらの道を選んでも生き残れる東洋の「森林の思考」とがあり、日本人は特に後者に親しんでいるためと見なしている。
人間関係にまつわる設問なら、私が述べた気を使い合う日本人の特性から説明したほうが分かりやすいが、今回の「神を信じるか」というような問いに関して「わからない」が多いのは鈴木の風土論的な説明のほうが、説得力があるように思える。
神を信じるかどうか、またどの神を信じるかをめぐって「文明の衝突」(ハンチントン)が続いている現代世界において、信仰上の無用の衝突を避け、真の融和と世界の平和に至る道を探るためには、日本人式のあいまいさがむしろ功を奏する可能性が高いと私は思うのだが、どうだろうか。