ようやく血の繋がった家族を得た頼朝

かくて時政は頼朝を婿と認めた。当時の伊豆では伊東氏の勢力が突出しており、これは時政にとって頭の痛い問題であった。頼朝は厄介な存在であるが、同時に「河内源氏」の貴種性は魅力でもあった。頼朝を婿とすることは、伊東氏に対する防波堤として(多少は)役立つと、時政は考えたのではないか。

だが、時政は祐親と同じく一度は頼朝と政子を別れさせたのであるから、頼朝を婿としたことは、あくまでも政子のガンコさに、仕方なく時政が折れた結果である。頼朝の貴種性の利用は後付に過ぎない。よって、時政に先見性を認めることは到底できない。頼朝が北条氏の婿となれたのは、偏に政子がガンバッたからである。八重と政子の性格を含め何かが違えば、時政は伊東祐親と同じ運命を辿ったか、時政と祐親の立場は入れ替わっていたかもしれないのだ。

やがて頼朝・政子夫妻には娘、大姫が生まれる。平治の乱による運命の激変後、やっと頼朝は血の繋がった家族を得たのであった。

子供の手
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頼朝を婿として受け入れた北条ファミリー

大姫の誕生は、治承2年または3年(1178、1179)と推定されているが、私は3年と考えている。頼朝は同年3月2日、武蔵国比企郡の慈光寺という寺院に自分の名を刻んだ梵鐘を寄進している。これが政子の安産祈願で、生まれたのが大姫と推定するからである。よって、時政帰郷後の騒動は同2年となる。軍記物の妙本寺本『曽我物語』は、頼朝夫妻の伊豆山参籠を治承2年11月とする。

軍記物語はいわば戦争小説であり、その記事は信用度が低いとされ、妙本寺本『曽我物語』の記す年月日もほとんどがデタラメであるが、頼朝夫妻参籠の日時は、いい線行っているのではないかと思う。この推定が正しければ、配流から18年後、頼朝32歳、政子22歳の時のこととなる。

北条一家は当時、政子の父、時政。時政の嫡子(跡継ぎ候補)である宗時。庶子(嫡子以外の子)で政子・宗時の弟、義時。義時のさらに弟で、やはり庶子の五郎(後の時房)。これに、時政の従弟とも甥とも伝える時定がいた。

女の子、つまり政子の妹は、次の4人がいずれも生年未詳であるが、活動時期などから治承2年以前に生まれていたはずである。

(1)頼朝鎌倉入りの翌年、養和元年(1181)2月1日に頼朝の命で、室町幕府将軍家足利氏の先祖である下野の源姓足利義兼と結婚した娘。

(2)時期不明だが頼朝の異母弟、阿野全成の妻となり、建久3年(1192)8月9日、実朝誕生の当日に乳母に選ばれた、阿波局と呼ばれた娘。

(3)武蔵秩父党有力者、稲毛重成の妻となって稲毛女房と呼ばれ、建久6年7月4日に没した娘。

(4)武蔵秩父党有力者、平姓畠山重忠の妻となって重保を生み、重忠・重保滅亡後に義兄(姉の夫)足利義兼の子義純に嫁いで、室町幕府管領家となる源姓畠山氏初代、泰国を生んだ娘。