頼朝一族には「伊豆源氏」という未来もあった

時政の妻は、前田本『平氏系図』が義時の母を「伊東入道女」と記しており、『工藤二階堂系図』の伊東祐親の項に「伊東入道」とあるので、義時の母、つまり時政の妻は伊東祐親の娘と推定される。家柄からして、この人が時政の正妻であろう。政子と義時は六歳違いなので、政子・宗時の母でもあったと考えられる。

細川重男『頼朝の武士団』(朝日新聞出版)
細川重男『頼朝の武士団』(朝日新聞出版)

だが、彼女について『吾妻鏡』は一言も語らないので、頼朝と政子が付き合い始めた頃には、没していたと考えられる。政子と時房は18歳違いなので、時房もこの女性の子であれば、当時としては高齢出産であり、時房の出産が難産で没した可能性も考えられよう。

治承2年の北条一家の年齢を記すと、頼朝の舅である時政は頼朝の9歳上の41歳。宗時は生年未詳だが、政子と義時が6歳違いなので、宗時も政子の弟であろう。義時は16歳。時房はまだ元服前の4歳。時定は34歳。政子の妹たちはいずれも生年未詳だが、畠山重忠の嫁については、私は8歳くらいであろうと推定している。

武士団の構成員は、惣領(当主。主人)、惣領と血縁のある家子、惣領と血縁の無いただの家臣(郎従など)に分かれる。同年の北条氏武士団は、惣領が時政、宗時・義時・時定が家子(時房は4歳なので)。家臣の人数は不明だが、惣領時政と家子3人を含めて、総勢二十数騎程度であったと、私は考えている。

頼朝は30を過ぎて初めて家庭を持った。1170年代末、気の強い妻政子の奮闘により、頼朝はささやかではあるが未来への希望を手にしたのであった。

このまま行けば、頼朝は伊豆の土豪北条氏の婿として生涯を送り、頼朝の子頼家・実朝の子孫は清和源氏の一系統、いわば「伊豆源氏」として細々と存続したかもしれない。このアナザーワールドでは、きっと大姫の悲劇も無かっただろう。こちらの運命の方が、あるいは頼朝一家は幸福であったのか。しかし、これは「もしも」の話である。

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