2008年、筆者がある学会誌で内モンゴル自治区のモンゴル人にとって中国文化大革命はジェノサイド(集団虐殺)だったとの論文を公表した際、世界の学界で少なからぬ反響が沸き起こった。
筆者はそれまで長らく第1次史料を収集し続け、証言と合わせてモンゴルの「民族の集合的記憶」を公にしたのだ。
「民族の集合的記憶」としてのジェノサイドの実態を示しておこう。
中国政府の(操作された)公的見解によると、文革期には内モンゴルで34万人が逮捕、2万7900人が殺害され、12万人が暴力を受けて身体に障害が残ったという。12万人の負傷者も暴力が原因で「遅れた死」につながった結果を含めれば、犠牲者数は約15万人に上る。
当然、中国以外の研究者や同自治区のモンゴル人研究者は中国当局の数字を信じていない。それでも、当時の自治区全体のモンゴル人の人口が140人万強だったことから、平均して1つの家庭から少なくとも1人が逮捕され、50人に1人が殺害された計算になる。虐殺の規模は大きかったと言えよう。
虐殺のほかにも組織的な性暴力が横行していたし、モンゴル人民共和国との国境地帯に住むモンゴル人に対する強制移住も実施された。そして、母語を話すことも母語による教育も禁止された。
集団の成員に対する殺害と強制移住、組織的性暴力や母語禁止などは、国連のジェノサイド条約に抵触するものだ。
特定の民族を対象とする大規模で長期にわたる暴力は、個々の中国人(=漢人)が完遂できる仕事ではない。高度に組織され、村や草原の末端まで共産党の指示系統に従って動く中国社会において、個人の行動は決して許されない。
殺戮を担ったのは漢民族から成る人民解放軍部隊と労働者、農民と大学生である。全ては共産党中央委員会の綿密な作戦計画に従って実施されたものである。大虐殺が発動された原因は近現代の歴史にある。
第1に、中国からの独立を民族全体の崇高な目標に掲げていたモンゴル人たちが、日露戦争後に日本とロシアに接近したことだ。特に新興帝国だった日本の力を借りて日本型の近代化の道を歩み、中国から離れようとした人々が多かった。
日本も内モンゴルの3分の2を支配下に置き、満洲国と蒙もうきょう疆政権という2つの准国家を運営。モンゴル人エリート層は、大勢の「親日分子」から形成された。