兄弟姉妹でも容赦なく切り捨てたワケ
秀吉には弟の秀長らの兄弟姉妹がいたが、実はほかにも存在したという。フロイス『日本史』一二章には、次のような興味深い記事がある。
これは天正十五年(一五八七)のことで、秀吉は五十一歳になっていた。この若者に関してはほかに史料がなく、史実であるか否かですら判然としない。秀吉はこの若者が実の兄弟であることを確認すべく、次のように母の大政所を問い詰めた。
彼女(大政所)はその男を息子として認知することを恥じたので、デウスに対する恐れも抱かず、正義のなんたるやも知らぬ身とて、苛酷にも彼の申し立てを否定し、人非人的に、そのような者を生んだ覚えはないと言い渡した。
おそらく若者は、秀吉と面会した際に何らかの要求(金銭など)をしたのかもしれない。
大政所は秀吉の高圧的な態度での質問に対して、「若者のことを知らない」と答えざるをえなかった。大政所も後ろめたいところがあり、何かと不都合なことがあったのであろう。
最近の研究によると、大政所には三回以上の結婚歴があったと指摘されている(服部:二〇一二)。大政所は生活を維持するために、男性を頼るのは止むを得なかった。
秀吉が十五歳で家を飛び出して以降、大政所は不特定の男性と関係を持ったのは確実だったという。
大政所が知らないとなれば、若者は秀吉に虚偽を述べたことになる。その結果、若者には苛酷な運命が待ち受けていた。続けて、『日本史』を引用しよう。
秀吉にとって、秀長ら以外に兄弟姉妹が存在することは「不都合な真実」だった。この若者のように、秀吉の知らない者が兄弟姉妹だったということは、決してあってはならないことである。
ましてや秀吉になんらかの要求(金銭など)があったとするならば、許しがたかったに違いない。秀吉が若者を斬首して、首を晒すのは常套手段だった。以後、同様のことが起きないように、強く警告を発したのである。
己の賤しい血統を打ち消すために行ったこと
無残な最期を遂げたのは、この若者だけではなかった。秀吉は先手を打って、他にも類例がないかを探索していた。その結果、秀吉に姉妹のいたことが判明したのだ。フロイス『日本史』には、次のように書かれている。
秀吉が姉妹の存在を偶然に知ったように記されているが、実際には執拗な探索を行ったのだろう。あるいは、大政所に心当たりを尋ねたのかもしれない。「己の血統が賤しいことを打ち消そう」としたというのは、血のつながりのある兄弟姉妹を根絶やしにすることを意味する。
秀吉は、自分の知らない兄弟姉妹を抹殺したかったのである。姉妹がどうなったのかは、次のとおりである。
この姉妹は、天下人の秀吉との面会が幸運をもたらすと有頂天になった。秀吉と面会するのにふさわしい服装を整え、来るべき輝かしい未来を信じて入洛したのだった。しかし、結果は史料にあるとおり無残なもので、おそらく首は晒しものにされたに違いない。