右手に6つの指が生えていた

外国史料にあらわれた秀吉は、どのように描かれているのだろうか。

秀吉に指が六本あったということはご存じだろうか。前田利家の伝記『国祖遺言』(金沢市立図書館・加能越文庫)には、次のように記されている(現代語訳)。

太閤様(秀吉)は、右手の親指が一つ多く六つもあった。あるとき蒲生氏郷、肥前、金森長近ら三人と聚楽第で、太閤様(秀吉)がいらっしゃる居間の側の四畳半の間で夜半まで話をしていた。そのとき秀吉様ほどの方が、六つの指(の一つ)を切り捨てなかったことをなんとも思っていらっしゃらないようだった。信長様は秀吉様の異名として「六ツめ」と呼んでいたことをお話された。

秀吉は生まれたときから右手の指が六本あり、それを切り捨てなかったことから、信長から「六ツめ」とあだ名されていた。

この情報を知っていたのか、朝鮮の儒学者・姜沆きょうこうの著書『看羊録』にも、「(秀吉は)生まれた時、右手が六本指であった。成長するに及び、「人はみな五本指である。六本目の指に何の必要があろう」と言って、刀で切り落としてしまった」と書かれている。

この記述で重要なのは、①秀吉の右手が六本指だったことが『国祖遺言』と合致していること、②一方で、余分な一本を切り落としたとあること、の二点である。『国祖遺言』の記述では、余分な指を切り落としていないようである。

「目が飛び出ていて、醜悪な容貌の持ち主」

実は、フロイス『日本史』十六章にも、秀吉の容姿について「彼(秀吉)は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。眼が飛び出ており、シナ人のように髭が少なかった」と記されている。

戦国時代の成人男性の平均身長は、百五十センチメートル台の半ばだった。肉食を主とし体格の良い欧米人から見れば、秀吉は小柄に見えたのかもしれない。同書には秀吉の指が六本あったと書かれているほか、容姿が醜く、眼が飛び出しており、髭が少なかったという記述がある。

フロイスがこうも秀吉をこき下ろすのは、伴天連追放令に対する怒りがあったからだと推測される。フロイスにとって、秀吉は邪魔な存在だった。

秀吉が「猿」と呼ばれたことは、よく知られている。それは、秀吉に多少の親しみを込めたあだ名でもあった。

この点について、姜沆の『看羊録』には、「賊魁ぞっかい(賊軍の長)秀吉は、尾張州中村郷(名古屋市中村区)の人である。嘉靖丙申(天文五年・一五三六)に生まれた。容貌が醜く、身体も短小で、様子が猿のようであったので(「猿」というのを)結局幼名とした」と記されている。

姜沆も文禄・慶長の役の際、朝鮮半島から日本に無理やり連行されたので、秀吉には良い印象を抱いていなかった。冒頭に秀吉を賊魁(賊軍の長)と記しているのは、そうした理由があったと考えてよい。

李氏朝鮮側の記録『懲毖録ちょうひろく』(十七世紀前後に成立)には、秀吉に謁見した朝鮮使節の「秀吉は、容貌は小さく卑しげで、顔色は黒っぽく、とくに変わった様子はないが、ただ眼光がいささか閃いて人を射るようであった」という感想を書き留めている。

背が低く容貌が卑しいというのは、フロイスらの感想と一致している。眼光が鋭いという感想は、敵ながらも秀吉を評価していたのだろうか。

秀吉が美男子ではなかった点については、秀吉自身がフロイスに対して、「皆が見るとおり、予(秀吉)は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予(秀吉)の日本における成功を忘れるでないぞ」と述べている(『日本史』一四章)。

この一文を見れば明らかなとおり、秀吉は自身の容姿が良くないことを自覚していたのである。同時に、秀吉は侮られないよう、フロイスを牽制けんせいしたのだ。