「お前、俺らとしゃべるのがよっぽど嫌なんだな」

しかし、2004年6月、僕は、新卒で就職した会社に辞表を提出した。僕は営業で落ちこぼれていた。入社から1年経ち、いよいよ追い詰められ、「自分がすべき仕事はこういうことではないのでは?」という考えが頭から離れなくなった。

他にも理由はあった。サラリーマン同士の飲み会に誘われても僕はお酒が飲めないし、まわりには好きな音楽や、演劇のことを語り合える同僚もいない。タバコを吸わない僕は、休憩も満足に取ることもできなかった。ずっとデスクに座っていて気が狂いそうになったときは、よくトイレにこもっていた。

住まいも会社の寮なので、仕事を終えて帰った後も、容赦なく玄関のドアがドンドンと叩かれる。宅飲みに来いという合図だ。一切無視した。土日は、ゴルフの誘い。もちろん一切無視した。ベランダから侵入しようとした先輩社員もいた。

ある日、僕は、会社の先輩から、僕が持っていた、まだそんなに普及していないiPodを差して「それって何?」と聞かれた。僕は、答えるのも面倒くさかったので、「ウォークマンみたいなもんですよ」と答えた。すると先輩は、「お前、俺らとしゃべるのがよっぽど嫌なんだな」と言われた。すべてを見透かされた瞬間だった。

これを機に、僕の会社での居場所はどんどんなくなっていった。日が経つにつれ、朝の満員電車のなかで、貧血で倒れることも多くなった。自分はやりたいこともやらずに無駄なことに労力を費やして何をやっているんだろうか。全部自分のせいとはいえ、これが日本の会社の常識なら、辞めるしかない。そう思い詰めた。

辞表を手にする男性の手元
写真=iStock.com/Yusuke Ide
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自分で何かを作って反応をもらう嬉しさ

日本の企業文化のあまりの息苦しさに耐えかね、僕は、吹っ切れた。「ライターになる!」今度こそは逃げないでやり遂げてやる。そう思って、僕は仕事の合間をぬって、ネットで知り合った大学生の男とふたりでミニコミ誌をつくり始めた。その作業が楽しくて、どんどんのめり込んだ。

そのミニコミ誌は、『にやにや笑う』といって、初期『クイックジャパン』に影響された、ニュージャーナリズム的なストリートルポや、出版界の偉人(菊池寛・岩波茂雄・宮武外骨など)の墓参り、その他よくわからないページで構成された、本当に若気の至りのようなものだった。印刷した紙をホッチキスで留めて、サインペンで価格を書いた。完全に手作りのミニコミ誌だった。だが、そんなものでも、全然知らない人たちがブログで取り上げてくれたりした。

僕は、初めて、何かを自分でつくり、その反応をもらう嬉しさを知った。特にこの感想は記憶に残っている。

「斜に構えているようで、直球だ。ふざけているような文体だが、言っている事はこの上なく本気だ(と思う)。本気で遊ぼうとしている人たちの文章だ(と思う)。面白い。何だこれ。悔しい」

まさに僕らがやろうとしていたことだった。これは今現在の僕の文章に対する態度でもある。