「KMFでの仕事は明石でのそれの延長で、フランス市場に向いたどんな製品をどのぐらい投入するかを決め、さらにマーケットでのシェアを何パーセント取り、親会社にどれほどの利益を還元するかなどの戦略を立てるというもの。初めの3年は同じく川重から出向していた日本人社長のアシスタントを務めながら、業務を覚えていきました」

フランス語などまったく話せない状態での渡仏だった。

「フランス人ってツンケンしてて、全然話をしてくれない。感じ悪い人たちだなーと思ってました。だから向こうで暮らし始めた直後は会社にこそ行っていたものの、土日はどうせ外に出ても気分を害することばかりでつまらないからと、完全に引きこもり状態。でもある時、これじゃいけない、この国の言葉でしゃべるんだと決めて、独学のフランス語でコミュニケーションを取り始めたんです」

「なんでここに女がいるの」という視線

会社の費用で業後は現地の語学学校へ通えることになっていたのだが、忙しくてとてもそんな時間は取れない。だから意味がわからなくても他人が話している言葉にひたすら耳を澄ませ、何を言っているのか理解するよう努めた。そして自分のフランス語が文法から何から間違いだらけなのはわかっていたが、気にせずとにかく話しかけた。

「そしたらなんと、フランス人はとっても親切でした。彼らが無愛想だったのは、当時のあの国にはまだまだフランス語しか話せない人がほとんどだったから。外国人に英語で声をかけられてもわからないと、接触を避けていただけだったんですよ」

出向4年目には先任者を引き継いでKMF社長に就任、唯一の日本人として50名のフランス人スタッフを束ねる立場となった。この頃には会話と読解ならフランス語に不自由せず、社内の労働組合と折衝をこなしたり、同国の二輪事業者が集まる会議に出席して意見を述べるまでになっていた。

しかし言葉の他にもうひとつ、桐野氏には越えなければならない壁があった。フランスでも、バイク業界において女性は圧倒的な少数派だったのだ。

「私自身は、バイク業界で働く中で女性であることのデメリットを感じたことは特にないんです。ただ『なんでここに女がいるの?』という視線は、フランスに行く前も行ってからも、あったかもしれません。KMFで社長を務めていた頃の例だと、私の下についていたセールスマネージャーは身長が180cmぐらい、体重は100キロあろうかという大きなフランス人のおじさんで、アポイントが入ると一緒に出向いていたんです。すると先方にはたいてい、彼の方が社長だと思われてましたね。私のことは『日本の会社だから、日本人のアシスタントがいるのね』みたいに受け取られて、名刺も出してもらえないことが日常茶飯事で」

だからといって気色ばんだりしないのが、彼女らしさなのだろう。

「そういう経験には慣れてましたから、勘違いされているところにわざわざ出ていって、『私が社長です!』とむきになって正したりもしませんでした。そう思われるんだったら別にそれはそれでいいや、と後ろで黙っていると、慌ててセールスマネージャーが『いやいや違うんです、実はこの人が……』と言ってくれて、改めて話が始まるっていうのがいつものパターンでしたね」