日本は本当に自由な社会なのか
1991年にソ連が崩壊し、ロシア連邦が生まれた。2000年から20年以上にわたって国家指導者として君臨しているのがプーチンである。
ソ連とロシアでいったいなにが変わったのか。実は体制はスターリン時代とあまり変わっていない。
一方で、プーチン政権になってわかりやすい変化もあった。それは言論の自由である。国民が公然と政権批判やスターリン批判、レーニン批判をする権利が与えられた。
ただし、それは建前でもある。言論の自由はあるが、それを行使するときは相応の責任が伴うのだ。
たとえばロシアのあるタブロイド紙はプーチンに愛人がいることを書いた。しかしその結果、編集長が辞任するだけではなく、新聞社のオーナーが自発的に発行を停止してしまった。「政府からの圧力はなかった」と言っているが、なんの圧力もなくビジネスをたたむ人などいない。
ちなみにウィキペディアでも日本語版や英語版ではプーチンには愛人がいて非嫡出子が二人いると書いてあるが、ロシア語版には書いていない。ウィキペディアは誰でも自由に書き込めるメディアのはずだが、大きなリスクを取ってまで書き込む必要性を誰も感じないのである。
自由な社会にも「見えざる線」が…
こうした「見えざる線(=タブー)」は、民主的な国家でもいくらでも存在する。
たとえば皇族にまつわるスキャンダルがそれである。「見えざる線」を踏み越えたとき、特定の思想を持つ団体からの圧力や攻撃がある。それにもかかわらず民主国家の人が自由だと感じているのは、「見えざる線」を無意識に避けているからだ。
逆に、『レーニン主義の基礎』の世界観では、タブーははっきりとした「見える線」として表れている。それに従って暮らす人は、ある意味安心できる。特定の枠内で考え、行動していれば、タブーに触れてしまう恐れがないのだ。
『レーニン主義の基礎』を読むとすべてがマニュアルに定義された社会を垣間見ることができ、そこにグロテスクさを感じる人も多いだろう。
しかし、この作品を正視することで、一見自由に思われる私たちの社会や、会社、交友関係に、『レーニン主義の基礎』のようなマニュアルがあるのではないか、知らず知らずのうちにそのマニュアルの上でのルールで動いているのではないか、と省みることができる。