だが太平天国の分権統治には大きな矛盾があった。洪秀全に与えられた「真主」という称号は天上、地上の双方に君臨する救世主を意味し、中国のみならず外国に対しても臣従を求める唯一の君主だった。そこには権限を明確に区別し、分散させるという発想が欠けていた。

また洪秀全の臣下で「弟」だったはずの楊秀清は、シャーマンとして天父下凡を行うと洪秀全の「父」として絶対的な権限をふるった。彼の恣意的な権力行使に対する不満が高まると、楊秀清は「万歳」の称号を要求して洪秀全の宗教的な権威を侵犯した。

中国の3人の射手を描いた1870年の鉄版画
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逆上した洪秀全は楊秀清の殺害を命じて天京事変が発生し、石達開の離脱によって建国当初の5人の王はすべていなくなった。その後諸王による統治は復活したが、洪秀全は独占した権力を手放さず、かえって中央政府の求心力の低下と諸王の自立傾向を生んだ。

この結果をどのように考えればよいのだろうか。

下層移民の異議申し立てから始まった太平天国は、同じ境遇にある人々に希望を与えたが、自分たちと異なる相手を受け入れ、これを包摂していく寛容さを欠いていた。この排他性は満洲人など清朝関係者を太平天国の掲げる「上帝の大家族」に包摂できなかっただけでなく、偶像破壊に反発した読書人や豊かな江南に住む漢族住民を遠ざけ、太平天国が新王朝として彼らの支持を広げるチャンスを失わせた。

くり返し現れる排除の論理

また太平天国のかかえた不寛容さは、その後の中国で進められた西欧諸国および日本の侵略に対する抵抗運動へと受けつがれた。中国だけではない。ヨーロッパとの出会いをきっかけに始まったアジア近代の歴史は、しばしばその内部に復古主義的な傾向をもち、列強の植民地化が深まるほど抵抗は激しく非妥協的なものとなった。

だが、この抵抗の歴史においても、異質な他者に対する排斥の論理はくり返し現れた。外国勢力に対してだけでなく、国内においても「敵」を創り出し、これを攻撃することで「われわれ」の結束を強化したのである。

中国の場合はこれに階級闘争の理論が結びつき、毛沢東によって「一つの階級が他の階級をひっくり返す」革命の暴力が肯定された。それが中華人民共和国の建国後、反右派闘争や文化大革命などの政治運動で「革命の敵」とみなされた人々に対する迫害を生み出したことはよく知られている。

いっぽう太平天国の王制や地域支配に見られる分権的な傾向は、郡県制の中央集権的な統治がかかえる構造的な問題を改める可能性を含んでいた。だがその実態は混乱していた。洪秀全と5人の王たちは身分のうえでは同じであったが、厳密に等級づけられており、権限にも大きな差があった。郷官に与えられた権限も小さく、中央から派遣される軍や上級将校の命令と地域社会の板挟みになることが多かった。