※本稿は、野地秩嘉『京味物語』(光文社)の一部を再編集したものです。
「東京で食べられる唯一の京都の味」
東京での仕事に慣れてきた頃、仕込みを終えた午後から、西は挨拶回りに出かけるようになった。映画館での時間つぶしには飽きていたし、ありがたいことに、祇園のお茶屋の女将がお客さんのリストを渡してくれたのである。西はスーツを着て、自分の客、そして、女将の客の元を訪ねて歩いた。
「初めまして。今度、新橋に小さな店を出しました」と手土産を持参して、挨拶して回る。挨拶を受けてくれた客は少なくとも一度は店を訪れてくれた。
京都で西のファンだった客も店を訪ねるだけでなく、応援もしてくれた。彼らは多くの友人、知人に「東京で食べられる唯一の京都の味だ」と京味を紹介した。また、東京に暮らしていて、京都旅行の際、西の料理を食べてファンになった人たちもさまざまな友人知人を連れて現れるようになった。
ある日、京都にいた頃の客が画家の梅原龍三郎を連れてきた。すると梅原は作家の志賀直哉を紹介してくれた。朝日新聞の記者も食通で知られる作家の獅子文六を連れてやってきた。作家の阿川弘之も現れ、平岩弓枝も訪れるようになった。
京味は一流の文化人が集まる店として、ひっそりとではあるが、知る人ぞ知る店になっていったのである。そして、紹介で訪れた銀座にあったセレクトショップ、サンモトヤマ社長の茂登山長市郎は西の料理を気に入ったらしく、大声で叫んだ。
「オレのところに請求書まわせ」
「健ちゃん、オレが毎日、客を送る。もし、払わなかったら、オレのところに請求書まわせ。必ず払ってやる」
茂登山は言葉通り、週に二度も三度もやってきて、数多くの財界人、文化人、食通を紹介してくれた。
当時、日本でトップだった都市銀行の頭取も西の料理にほれ込んだひとりだ。彼は店に足を運ぶだけでなく、役員会の昼食に出す弁当を作らないかと言ってきた。正確には役員会に出す弁当を決める選考会に出ろということだった。
選考会に出るもう一方は東京の有名料亭だった。片や、西の店はできたばかりのカウンター割烹である。
「やらせていただきます」