すべてを変えて「四小竜」を迎撃

1945年9月、大阪市西淀川区で生まれた。弟が一人。父は自営業で、輸入車を日本仕様に変えたり、遊園地の回転遊具の設計も手がけるエンジニアだった。大学は関西大学の機械工学科。長男だから、親の仕事をみていて、技術系へ進まなければならないと思っていた。だが、その年、父が51歳で早世する。卒業を迎えたとき、知人が預かってくれていた家業を継ぐ気にならず、弟に任せようと考え、大学院に残る。71年春、松下に入社した。

最初の配属先の録音機事業部で、変動相場制への移行に遭遇する。一ドル=360円が280円にまで円高となり、輸出品の手取り額が2割も減る。アジア勢などの追い上げも始まった。「アジアの四小竜」と呼ばれた韓国、台湾、香港、シンガポールが、強敵となる。

追い上げはとくにオーディオ分野で激しく、低価格の製品が次々に登場した。70年代後半、録音機事業部は大規模な設備投資に踏み切る。機械を自動化し、部品も共通化して自分たちでつくる内製化を進める。自動化に伴い、研修制度も変えた。営業部門も米欧だけではなく、中近東にも照準を合わせた。ありとあらゆることを変えるプロジェクト。その立案・遂行チームに参加した。

改革が完了し、新設備が動き始めたとき、上司が切り出した。「君がかかわってできたラインだから、君が責任者になれ」。79年3月、テープレコーダー工場の主任となる。大学院を修了した社員には例のない現場勤務。そこで、父親のようなベテランたちに鍛えられた。みんな、図面では表せない繊細な部分を、知恵と経験で製品に反映させていく。課長になり、40歳も超えて8年、「モノづくり」の醍醐味を知る。

だが、改革の効果は10年とはもたない。「アジアの四小竜」は、いまのブラジル、ロシア、インド、中国の「BRICs」とは、経済規模は違うが、追い上げの急は同じだ。さらに「プラザ合意」が来た。冒頭で触れた苦境と感動、そして、次回紹介する海外進出での苦労と達成感が続く。

「窮亦楽、通亦楽」(窮もまた楽しみ、通もまた楽しむ)――古(いにしえ)の聖人の道に達した人は、困窮すればその困窮を楽しみ、栄達を得たときはまたそれを楽しんだ。困窮も栄達もなく人生を楽しむように、と説いた『荘子』にある言葉だ。40代まで困難と改革を繰り返した足どりは、この教えのようだった。

2006年6月、社長に就任。2年目の正月、社名変更を発表した。グローバル経営へいちだんと踏み出す決意も表明する。BRICsの躍進は、予想以上のスピードで進む。課題はそうした新興国への進出にあり、その追い上げを振り切るには材料や素材の分野の強化が欠かせないことが、決意の底流にある。三洋電機とパナソニック電工を、社内外の予想より早くこの4月に吸収することも、その危機感から出た結論だ。負の遺産はすべて整理し、新たな成長を目指す。

「窮も楽しみ、通も楽しむ」。そこに、迷いはない。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)