傷があるモノには、自分の生きた証を見いだせる
古来、傷は勲章、という言葉が残されている。
パタリロのプラズマXは「傷は男の勲章さ」と、αランダムを受け入れた。ワンピースのゾロは「背中の傷は剣士の恥」と、腹にデカい傷を受けた。BUMP OF CHICKENは「そうして知った痛みを未だに僕は覚えている」と歌った。
傷はときに、大切ななにかを守った記録に、自分が存在していた証明になる。倒木のあとに新緑が息吹くように、傷跡には愛着が芽生える。ゆらぎそうになったとき、傷をなでれば、勇気すらわく。
さらぴんのモノより、傷があるモノのほうが、そこに自分の生きた証を見いだせる。
わたしは買って読んだ本に線を引き、ふせんを貼るくせがある。「本を汚すなんて」「いらなくなったとき、売れないじゃん」と、反対もされる。それでもわたしは、とにかく書きこみたいのだ。
本をふたたび開くとき、過去の自分と対話しているような気持ちになる。
あのとき、なぜこの一行が心にささったんだろうかと考える。自分の成長に気づく。
走る線を、うすくなった紙のはしを、本に残した傷を目で見て、どこかで救われている自分がいる。最近はなんでもデジタルコンテンツになっている。すごく便利だ。でも、失われてさびしいものもある。
何度も開いてヘロヘロになったCDの歌詞カード、借りものの恥ずかしい言葉と絵を刻んだノート、Aボタンの塗装が連打ではげていったゲームボーイ。そこにある傷は間違いなく、捨てられない愛着だった。
愛はどこにでも芽生える
愛は、どこにでも芽生える。
割れているスマホにも。だって、割れているから「岸田さんそれどうしたの!」と初対面の人にも話しかけてもらえるし。自撮りばっかりの写真で笑ってもらえるし。スマホを落としたらたまたまフォロワーさんに拾われる奇跡が起きたこともあるし。ボロボロだから、思い切って使いたおせるし。バキバキのスマホも、意外と愛しいじゃん。まあ、そりゃ、見た目は悪いけどさ。
愛はどこにでも芽生えるのだから、芽生えさせなきゃ損なのだ。
わたしはスマホが割れていても平気だ。そこへ愛を見いだしたから。勲章はわたしがわたしに与えるのだ。
その方が、生きていて楽しい。