「1箱600円になったら、嗜好品ではなく贅沢品」
最近、以下に紹介するような話をたびたび耳にするようになった。
以下は、喫煙者の夫を持つ非喫煙者の妻のコメントだ。
「夫がたばこを吸うこと自体、私は特に反対しません。夫は、自宅の室内でたばこを吸いませんから、受動喫煙の心配もありませんし、私の嫌いなたばこの臭いとも無縁です。ですから夫が自分の小遣いの範囲でたばこを吸うことに対して、文句を言ったことはありませんでした。しかし……」
この女性は、最近になって初めて夫に対して、「たばこ、やめたら」と言ったのだという。
「だってそうでしょう。1箱600円にもなってしまったら、それは嗜好品ではなくて、贅沢品ですよ。そんなの無駄遣いだと私は思います」
繰り返しになるが、最近、取材過程でこうした話を頻繁に聞くようになった。
つまり1箱600円を超える価格設定は、消費者サイドにこれまで想定されなかった心理的プレッシャーをもたらしている可能性が高いのだ。
つまり「たばこ」は、贅沢品であり無駄遣い、という認識が広がりつつあるとも言えよう。
今後たばこは、経済的に余裕のある人向けの嗜好品と位置付けられるのかもしれない。
しかし果たしてそれは、社会正義にかなった状況なのだろうか。今後たばこ税がさらなる増税に見舞われたならば、経済弱者はどんどん喫煙という行為から離れていく。
いったいそれはどのような世界なのだろうか。
たばこの価格が1000円を超えている米国で、喫煙者である筆者はこんな経験をしたことがある。
たばこ税は物品税的な性格を強く持つ税金に
ニューヨークのカフェのテラス席(喫煙可)で、コーヒーを飲みながらたばこを吸っていた時のこと。
通りがかりの若者が筆者にこう声を掛けてきた。
「昨日から何も食っていないんだ。小銭をめぐんでくれないか?」
まさに典型的な物乞いだ。一緒にいた私の友人が首を横に振っている。筆者の返事は「ノー」だった。
「だったらタバコをくれないか?」
かわいそうになって2本ほどたばこを渡した。うれしそうにそれを受け取った若者は、どこかに去っていった。
友人は私にこう言う。
「彼はあれを現金に交換するだろうな。2ドルにはなるだろう。さあ、われわれも店を出よう。うかうかしてると、噂を聞きつけた物乞いたちが、次々とやってくるぞ。『お人よしのジャパニーズが、簡単にタバコをくれるぞ、とね」
いずれにしてもたばこの価格があまりにも高くなった米国では、あくまでも非公式な形ではあるけれども、街中でたばこのバラ売り(1本売り)を時々見かける。
そしてその一方で、アメリカの喫煙率は25.1%(2018年)と、日本の21.9%(同)と比べても高い水準にあるのが実情だ。
今後、たばこは、経済的余裕のある国民の嗜好品という色彩をどんどん強めていくことになるはずだ。
もしかすると高級葉巻きがそうであるように、たばこも富裕層のアイコンとなるかもしれない。
いずれにしてもたばこ税は、贅沢品に対する課税、つまり物品税的な性格を強く持つ税金、税制となっていくはずだ。