東京パラリンピック直前の動揺

1年延期となった2020東京パラリンピック。この1年で変わってしまったのは世の中だけではない。世界1位の国枝がグランドスラムに勝てなくなってしまったことだ。1月、10年連続で優勝してきた全豪オープンに準決勝で敗れる。6月全仏オープンは決勝で負け、7月の全英は準々決勝で敗退してしまうのだ。はっきり言って黄色信号が灯ったと言っていい。

「3月くらいからプレッシャーがかかり始めて、全仏、全英と優勝できなくてメチャクチャ焦りました」

1年間で若い選手たちが急成長を見せた。サーブが超高速となり、ストロークも鋭く速くなった。車椅子テニスが本格的にパワーテニスに変貌してきたのだ。それに比べ、肘を痛めている国枝はサーブもストロークもパワーが乏しい。そこで、戦術に長けている岩見亮を新たにコーチとして招聘して、配球の巧みさでポイントを奪えるようにした。また、車椅子の座席を高くして、高くバウンドするパワフルなトップスピンに対抗できるように改良した。さらにボレー、スマッシュというネットプレーに磨きをかけた。

ロジャー・フェデラーが国枝に言っていた。

「最高のディフェンスはネットに出ること。たとえ失敗しても怯まない。『大丈夫、また、トライしよう』と思うこと。そうしてポイントを積み重ねる。車椅子テニスならば絶対にネットプレーが有利」

その理由は、車椅子テニスはいくら速く動けると言っても限界があり、ネットプレーを決めることができれば絶対に追いつけない、ということがあるからだ。

「東京パラは絶対に勝ちたい。勝って、車椅子テニスの面白さや素晴らしさを多くの人に伝えたい。その絶好機になるからです」

しかし、それでも不安は残った。肘痛によって編み出した新打法のバックハンドが思うように決まらなかったからだ。打ち方を試行錯誤する日々。

「勝つよりも負けたほうがいいと最近思うようになったんです。負けるとどうして負けたのかを考える。そこで気付くことがたくさんあるんです。それがモチベーションになる。練習に打ち込めるんです」

さらにこんなことまで言った。

「負けた数が、自分を成長させる数」

こうしてとうとう、開幕1週間前にバックハンドに光がさした。ようやくフォームが固まったのだ。

世界一のチェアワーク

2020東京パラリンピックは有明テニスセンターで始まった。シングルス、シードの国枝は2回戦から出場し、1セットも落とさずに決勝に進んだ。準々決勝はライバルのステファン・ウデを第1セットこそタイブレークとしたが2セットで下し、準決勝はウインブルドンで苦杯をなめたゴードン・リードをしっかりと破ることができた。

決勝はオランダのトム・エフベリンク。時速170kmの高速サーブが武器の28歳。伸び盛りで勢いがある。この21年の全豪と全仏を制覇したアルフィー・ヒューエットを準決勝で破っている。

国枝はまずエフベリンクの高速サーブを封じ込める作戦に出る。

「サービスリターンは僕の得意技。バックハンドが固まってからは、フェア、バックどちらでも返球できる」

最初のポイント。国枝はきっちりリターンし、しかもネットに出た。フェデラーの教えをしっかり実行した。

「今日の俺はネットに出て攻撃する」

その意志をはっきりとエフベリンクに伝えたのだ。