国枝は毎日毎日ひたすら球打ちを行った。新しい打法が身につくまで、肘痛と付き合いながら基礎練習を繰り返した。しばらくして試合にも出始めるが、かつてのように勝利することができない。

「焦らない。我慢我慢と言い聞かせ続けました」

世界ランクは1位から10位まで滑り落ちた。17年はグランドスラム大会を一度も制すことなく終えた。世間はこのときに初めて国枝の引退を囁き出す。

「不思議なものですよね。本人はまったく引退するつもりがなくなってから言われる。こっちはまだまだ進化できると思っているのに」

テニスラケットとボール
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新打法で復活、世界一への返り咲き

国枝の肉体は過去最高に強くなっていた。ボールが打てなくなったときに上半身を鍛え上げたからだ。妻の愛が栄養満点の食事を提供するから体調も万全。世界一のチェアワークはさらに進化している。手を使わなくとも自由自在に車椅子を動かせる。

やってみればわかるが、素人では体を振って斜めに動かせたとしても、元に戻すことは至難の業。右に左に自由自在に動かせることなどありえない。グランドスラム20勝のノバク・ジョコビッチでさえ「車椅子でのあの動きはアメージングと言うほかない」と国枝を絶賛している。

新打法を手に入れ、動きにキレが増した国枝は、17年末には復活の手応えを掴んでいた。

18年1月、国枝は全豪オープンで復活優勝を遂げる。さらに6月の全仏オープンも復活優勝し、世界ランク1位に返り咲いたのである。

妻の愛は言う。

「彼から『引退』の言葉を聞いたときから、グランドスラムやパラリンピックなど、最高の舞台でプレーできる時間はそう長くないなと実感しました。ですから、それからは常に一緒にいて彼をサポートしようと決めたんです。再び全豪と全仏に勝ったときは、ついていった甲斐があったと思いました」

19年はグランドスラム大会の優勝はなかったが、自己最多の年間9勝を挙げた。そして翌20年は全豪オープン10勝目を挙げ、その後新型コロナでツアーが中断したものの、再開した全米オープンを制した。その間には心の底から目標としていた東京パラリンピックの延期があった。

「東京パラリンピックは13年の夏、全米オープンの決勝の前夜に20年に開催されることを知りました。あまりに興奮して夜も眠れず、翌日はへろへろで負けてしまいましたが、その時からその日を夢見てきました。それだけにコロナでの延期はショックでした」

それは一心同体の愛さんも一緒だった。しかし2人の願いは翌21年に叶えられる。開催か中止かと世論が揺れる中、2人の気持ちも大きく揺れたことだろう。しかし、開催の願いは成就された。あとは勝つだけである。